善福寺公園めぐり

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初芝居は“初台・歌舞伎”

初芝居は東京・初台の新国立劇場中劇場で上演中の「令和6年初春歌舞伎公演」。

毎年1月に東京・国立劇場で開催されてきた「初春歌舞伎公演」は、同劇場が建て替えに伴って10月末に閉場したため今年からしばらくは会場がいつもはシェークスピア劇など演劇の上演が行われている新国立劇場の中劇場となった。

歌舞伎用の劇場ではないので花道はなし。

演目は「梶原平三誉石切 鶴ヶ岡八幡社頭の場」(梶原平三景時に尾上菊之助、青貝師六郎太夫嵐橘三郎、六郎太夫娘梢に中村梅枝、大庭三郎景親に坂東彦三郎、俣野五郎景久に中村萬太郎ほかの出演)、「芦屋道満大内鑑」(女房葛の葉と葛の葉姫の2役を梅枝、安倍保名を中村時蔵と、時蔵・梅枝の親子による共演)、新国立劇場がある“初台”の文字が入った「勢獅子門出初台」(尾上菊五郎菊之助時蔵ほか総出演)。

 

「梶原平三誉石切(かじわらへいぞうほまれのいしきり)鶴ヶ岡八幡社頭の場」は石橋山の合戦で源頼朝が敗走した後の鎌倉が舞台。

鶴岡八幡宮に参詣に訪れた平家方の大庭、俣野の兄弟と梶原平三景時が偶然出食わし、普段より肌合いがあわぬ両者であったが勝利を祝って杯を酌み交わす。そこへ青貝師(螺鈿細工の職人)六郎太夫と娘の梢がやってきて、大庭に家宝の刀を買ってほしいと持ちかける。大庭たちには秘密だが、源氏に味方する六郎太夫は刀を売って軍資金にする考えだった。

目利きを頼まれた梶原は「一点曇らぬ名刀」と太鼓判を押すが、一太刀で2人分を真っ二つにする「二つ胴」の試し切りで確かめなければ買わない、というので、死罪が決まった囚人に加え、死を覚悟した六郎太夫も自分も犠牲になると身を横たえる。

梶原が刀を振り下ろすと、囚人は真っ二つとなるが六郎太夫は縛った縄まで切ってピタリと止まる。これを見た大庭兄弟は梶原の目利き違いをなじり引き上げて行く。 刀を売れなかった六郎太夫は自害しようとするが、親子の素性を見破った梶原は「今は平家方だが、心は頼朝の源氏方」と本心を明かし、手水鉢を真っ二つに切って名刀の証拠を見せ、自分が刀を買う約束をして幕となる。

 

菊之助の初役による梶原平三景時。刀の目利きをする場面では、二枚目の菊之助だけに錦絵から抜け出たような見得(みえ)の美しさ。

「捌(さばき)役」と呼ばれる分別のある武将の役なので、まだ若い菊之助にどれだけできるかと気になっていたが、重厚感というかハラの座ったセリフ回しが随所にあり、引き込まれた。

クライマックスでの手水鉢を真っ二つにするシーンでは、「剣も剣」「切り手も切り手」のセリフのあと、間髪入れず大向こうから「役者も役者」の声。客席からはヤンヤの拍手。舞台と客席が一体となって、ナマで見る歌舞伎の醍醐味を味わう。

 

芦屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)-葛の葉-」は「葛の葉子別れ」というタイトルでも知られるが、時代は平安前期、陰陽師安倍晴明の父である安倍保名(やすな)が登場するが、歌舞伎だと完全に江戸時代の世界。

動物や精霊、妖怪、神など人間以外の者との恋愛や結婚といった異類婚のたぐいの民間伝承は昔からあり、安倍晴明和泉国信太の森に棲む白狐が産んだ子だったという「信田(信太)妻」の伝説が元になった物語。

 

安倍保名に命を助けられたキツネが、人に姿を変えて保名と契り、子を産む。それから6年、自分の正体が判明して母は「恋しくはたずね来て見よ和泉なる信田の森のうらみ葛の葉」の歌を残して森の奥へと去っていく。

キツネが化けた保名の女房・葛の葉と、お姫さまの葛の葉姫を梅枝が一人二役で演じ、その美しいこと。

これからの歌舞伎の女形はこの人が背負って立つのではないかと思うほどのすばらしさ。

この芝居では、梅枝の早替わりと、子別れの場面での切々たる情愛の表現が見どころ。とくに障子に筆で歌を書き残す「曲書き」と呼ばれるところが圧巻で、書いてる途中に左手で裏文字にして書いたり、子どもを抱きながら筆を口でくわえて書いたりとケレン味もたっぷだりだが、キツネのやさしい心根にほろりとさせられる。

 

キツネは実は千年近も生きる白狐だったけど、悪者に追われて命が危ういところを安名に助けられた。恩返しのため葛の葉姫の姿を借りて傷を負った安名を介抱するうち、やがて互いに心を許し、夫婦となる。

そして白狐はこんな意味のことをいうのだった。

「寄り添うそのうちに、夫の大事さ大切さ、子どもへの愛を身に沁みて知りました。畜生であっても、いやだからこそ、温情・愛情の強さは人間の100倍はあります」

野生動物であるキツネは自然が生み育てたものであり、自然そのもの。進化のおかげで知恵を得て、邪念を持つようになった人間と違って、自然の摂理の中で生きるキツネこそは純粋な愛を知っているかもしれないと、心洗われるような梅枝のセリフだった。

異類婚姻譚」と呼ばれる結婚説話は、日本だけでなく世界の各地に流布しているが、それはタブーとして広まっているというより、自然への恐れとともに自分たちが失ってしまった自然への憧れがあるからこそ、世界の各地で言い伝えられているのかもしれない。