善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「歌行燈」「国際市場で逢いましょう」、テレビドラマ「今朝の秋」

チリの赤ワイン「モンテス・アルファ・シラー(MONTES ALPHA SYRAH)2021」

メインの料理は特製ハンバーグ。

「チリ発、チリ人によるチリワインカンパ二ー」として1988年に設立されたワイナリー、モンテスのワイン。

ブドウ品種はシラーを主体にカベルネ・ソーヴィニヨンヴィオニエをブレンド

ほどよいタンニンと果実味とでバランスのとれた味わい。

 

ワインの友で観たのは、民放のBSで放送していた日本映画「歌行燈」。

1960年の作品。

監督・衣笠貞之助、出演・市川雷蔵山本富士子柳永二郎、信欣三、中条静夫、荒木忍ほか。

泉鏡花の同名小説を映画化。能の家元の嫡子と盲目の謡曲師の娘とが運命の糸にあやつられながらも、その純愛をつらぬく姿を明治情緒と能楽の世界の幽玄美の中で哀しく、美しく描く。

 

ときは明治30年代、伊勢の山田に東京から観世流家元恩地源三郎(柳永二郎)と嫡子喜多八(市川雷蔵)がやってきて奉納能を披露する。一方、盲目の謡曲指南・宗山(荒木忍)は、かつては娘のお袖(山本富士子)に手を引かれて按摩をしていたが、その声を見込まれて今は町一番の謡曲師となっていて、観世流を馬鹿にしたいい方をする。それを知った喜多八が旅姿に扮してやってきて、彼の実力を見せて立ち去ると、自分の芸に自信を失った宗山は古井戸に身を投げて死んでしまう。

その顛末を知った父源三郎は喜多八を謡曲界から破門。喜多八は諸国を門付けして歩く身となるが、偶然、桑名の宿で出会ったのが、亡くなった宗山の娘お袖であり、彼女もまた、そこで芸者になっていた。

亡くなった父を思うと一切芸事をやる気がしなくて、芸を習うことを拒んで抱え主から“芸なし芸者”と罵られる毎日だったお袖だが、喜多八と出会った彼女は、彼に仕舞の稽古を頼む。父より謡を禁じられた喜多八は喜んで引受け、2人は早暁の裏山で厳しい稽古を続けるようになる。

ついにお袖の舞う“玉の段”が仕上ろうというとき、彼女には金持ちへの身請けの話がまとまり、一方、地元のヤクザのケンカに巻き込まれた喜多八は留置場に入れられしてまう。

絶望したお袖は自殺を決意するも、能に関係ある客がきたというので、生きている最後にと座敷に出る。客は、喜多八の父恩地源三郎と小鼓の師匠辺見雪叟(信欣三)だった。喜多八の父と知らずお袖が“玉の段”を舞うと、その見事さに源三郎は地の謡を、雪叟は鼓をつとめる。

鼓の音に魅入られたように、いつしか喜多八の姿が近づいてきて、2人は白梅が散る庭で固く抱き合うのだった・・・。

 

泉鏡花といえば、異界への恐れと憧れを持ち、怪奇趣味とも相まって独特の幽幻・唯美を追求した浪漫と幻想の文学の先駆者として知られるが、彼の作品はいずれも純愛物語だった。

「外科室」は、たった一度すれ違っただけの一目惚れによる純愛物語だし、「天守物語」は天守に住む女の妖怪と若侍の純愛物語だった。「婦系図」も古い身分社会における果たせないままで終わる純愛物語だった。

そして、本作も、市川雷蔵山本富士子との、ほとんど一目惚れといっていい純愛物語であり、逆境にあった2人が芸を極めたとき、晴れて結ばれるのだった。

明治のころの若者の一途さ、純粋さが伝わってくるような映画。

タイトルの「歌行燈」とは、「歌」はすなわち謡であり能楽であり、「行燈」とは芸道の行く手を照らす灯(あかり)を意味しているのだろう。

 

その前に観たテレビドラマ。

NHK総合で放送していたドラマスペシャル「今朝の秋」。

2023年に亡くなった脚本家の山田太一を偲んで、1987年11月に放送された作品の再放送。

脚本・山田太一、演出・深町幸男、音楽・武満徹、出演・笠智衆杉村春子杉浦直樹倍賞美津子樹木希林加藤嘉名古屋章ほか。

 

離婚から20数年がたち、人生の秋を迎えた元夫婦(笠智衆杉村春子)が、がんで余命3カ月とされた一人息子(杉浦直樹)の死を目前に再会。一家の思い出の地・蓼科で最後のひとときを過ごす中、失われた家族の絆がよみがえる・・・。老いと人生の機微を描いた名作。

 

山田太一NHKの演出家・深町幸男は、「夕暮れて」(1983年/主演・岸惠子)、「冬構え」(1985年/主演・笠智衆)、「シャツの店」(1986年/主演・鶴田浩二)、「友だち」(1987年/主演・倍賞千恵子)と、コンビで数々の作品を送り出してきて、その第5弾として制作されたのが「今朝の秋」。

主演の笠智衆杉村春子小津安二郎監督の遺作「秋刀魚の味」以来、25年ぶりの共演。放送された1987年11月当時、笠智衆は83歳、杉村春子は81歳で、NHKドラマ出演は12年ぶりだったという。

 

しみじみとした余韻の残る作品だった。

蓼科にひとり暮らす鉱造(笠智衆)は一人息子の隆一(杉浦直樹)が余命わずかと知り、東京の病院へ駆けつける。あのころ、患者本人には末期のがんとの告知はされず(今もそうかもしれないが)、家族も含めまわりの人は本当のことをいってくれない。しかし、薄々自分の余命が短いことに気づいたとき、まだ当人は50歳ぐらいの若さ。

一方、母親のタキ(杉村春子)は20数年前に男をつくって家を出て、父の鉱造とは離婚してしまっていて、彼女は今、男とは別れたらしく若い女性(樹木希林)を雇って居酒屋を経営している。そして隆一の妻・悦子(倍賞美津子)も、どうやら別の男がいるらしく、彼女は夫との離婚を考えている。

鉱造は、余命わずかとなった息子にどんな言葉をかけたらいいのか、思い悩むが、蓼科に行ってみたいという隆一の言葉を聞き、「かまうもんか、病院を抜け出そう」とタクシーで蓼科へと向かう。

そこへ、タキや悦子ら家族も集まってきて、隆一の最期の思い出をつくっていく。

ドライブや花火を楽しみ、思い出の歌を歌おうと父が歌ったのは「恋の季節」だった。

「忘れられないの あの人が好きよ 青いシャツ着てさ 海を見てたわ~」と口ずさむ鉱造。

一度は崩壊してしまった家族がまたつどい、そんな彼らに見守られる中で、隆一には死に対する心構えができてくる。

長らく別れ、反目し合っていた老夫婦の間のわだかまりも、少しずつ消えていく。

 

隆一が亡くなって、みんなが蓼科から去ろうというときの、笠智衆杉村春子の会話がいい。

笠「どうだい、ここへ移って来たら・・・」
杉村「だめだめ、私、こんなネオンも電車もないようなところ。でも、つまらなくなったときはまた寄せてもらうわね」

 

別れた夫婦のこんな付き合い方もいいかもしれない、とフト思う。

 

「今朝の秋」は俳句の季語でもある。

立秋の日の朝、秋立ちそめた朝、けさから秋めいた感じになったという気持ちを強調していう語、だとか。

 

温泉(ゆ)の底に我足見ゆる今朝の秋 蕪村

 

人生の秋を思う句だろうか。

 

民放のCSで放送していた韓国映画「国際市場で逢いましょう」。

2014年の作品。

原題「国際市場」

監督ユン・ジェギュン、出演ファン・ジョンミン、キム・ユンジン、ユンホ、オ・ダルスほか。

朝鮮戦争中の1950年、現在の北朝鮮興南から脱出しようとしていた幼いドクスとその一家は、戦乱に巻き込まれて父と末の妹と離ればなれになるが、長男であるドクスは父から「お前が家長になるんだ。家長はどんなときも家族を優先させろ」といわれ家族を任される。やがて釜山に渡ったドクスら一家は、国際市場にある叔母の店で働くようになる。

青年になり家計を支えるようになったドクスファン・ジョンミンだったが、弟の大学進学資金を稼ぐために旧友のダルグ(オ・ダルス)とともに炭鉱労働者として西ドイツに出稼ぎに出る。その後、韓国に戻ってからは、ベトナム戦争の戦場で民間技術者として働くが、西ドイツでもベトナムでも命を落としかねない非常事態に見舞われながら、家族のために懸命に働くドクスだった・・・。

 

韓国で歴代2位となる観客動員数1410万人を記録した大ヒット作という。

釜山の国際市場を主舞台に、激動の時代を生き抜いた男の一代記。

史実にもとづくところがあり、それで韓国の人々の共感を呼んだのだろう。

1960年代の韓国はとても貧しい国であり、国外への出稼ぎ先となった国のひとつが西ドイツだった。1963年の夏、韓国政府は「3年間、毎月159ドルの賃金をもらえる」として、全国の新聞に西ドイツで働く鉱夫5千人と看護師2千人を募集するという広告を出し、鉱夫にはおよそ4万7千人が応募。同年12月、高い競争率を勝ち抜いて採用され西ドイツ行きの飛行機に乗ったのは250人あまりの若者たちだった。
同様にして、看護師に応募したのは2万7千人もの若い女性たちだった。

結局、1963年から1977年まで、西ドイツに派遣された韓国人炭鉱労働者の数はのべ7936人。同じ時期に1万2千人あまりの韓国人看護師も西ドイツに派遣されているという。

 

ベトナム戦争にも、アメリカの要求のもと、のべ30万人以上の韓国軍が派遣され、外国からの軍隊の中ではアメリカに次いで多くの軍を派遣した国となった。

軍隊に守られる形で、建設業や運送業などの民間企業もベトナムに渡っていて、ベトナムに派遣された韓国人技術者および技能工の総数は1965年から1972年まででのべ2万5331人、現地で除隊して就業した1922人を入れると合計2万 7323人にのぼったという。

 

映画で主要なテーマとなっているのが朝鮮戦争での生き別れだが、朝鮮戦争は53年7月27日に休戦協定が結ばれたものの、戦争が終わったわけではなく、南北の分断は固定化し、映画の主人公のように北朝鮮に残る家族と離散し、故郷に戻れない「失郷民」が韓国には数百万人取り残されたままという。

映画は、そうした苦難の歴史を歩みながらも、絶望を希望に変えて、たくましく生き抜く庶民の姿を描いていた。