善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

きのうのワイン+映画「昼下がりの情事」「透明人間」

いつもは日本酒だが、たまに飲むワイン。

アルゼンチンの赤ワイン「カイケン・エステート・マルベック(KAIKEN ESTATE MALBEC)2020」

チリのワイナリー・モンテス社が隣国アルゼンチンで手がけるワイン。

ブドウ品種はアルゼンチンを代表するマルベック。

マルベックはフランス南西部カオール地区原産の赤ワイン用黒ブドウ品種で、20世紀半ばごろまではフランスでも人気の品種だったという。しかし、病害などのためフランスでの栽培量は激減。現在はアルゼンチンで最も多く栽培されていて、世界のマルベックの栽培面積の75%以上をアルゼンチンが占めるといわれるほどとなっている。

アルゼンチンのマルベックはタンニンがまろやかな感じで、飲みやすい。

 

ワインの友で観たのは、民放のBSで放送していたアメリカ映画「昼下がりの情事」

1957年の作品。

原題「LOVE IN THE AFTERNOON」

監督ビリー・ワイルダー、出演オードリー・ヘプバーンゲイリー・クーパー、モーリス・シュヴァリエ、ジョン・マッギヴァー、ヴァン・ドゥードほか。

 

パリを舞台にしたロマンチックコメディ。

オードリー・ヘプバーンの没後30年というのでテレビ放映された。

音楽院でチェロの勉強をしている19歳のアリアーヌ(オードリー・ヘプバーン)は、私立探偵である父親(モーリス・シュヴァリエ)の仕事に興味津々。素行調査に登場する億万長者のプレイボーイ、フラナガンゲイリー・クーパー)の存在が気になり、ついに出会いに成功すると、彼に恋をしてしまう。

しかし、何しろ相手は恋に手なれた男。アリアーヌも負けじと、数々の男を手玉に取ったプレイガールのフリをして近づくが・・・。

 

ローマの休日」(1953年)から4年がたって、瑞々しいままのオードリー・ヘプバーンが、背伸びした純情な娘を好演している。

この映画公開時オードリーは28歳。それでも19歳に見えるところが彼女らしい。

邦題はまるで日活ロマンポルノみたいだが(実際に白川和子主演でそんな題の映画があった)、原題は「午後の恋」。

この映画はヨーロッパ版とアメリカ版が存在するという。

ヨーロッパ、特にフランスあたりでは19歳の少女と中年のオジサンの恋を許すおおらかさがあったが、アメリカには教会の圧力でつくられた倫理規定があってそうはいかない。「キスシーンは3秒以内」という決まりもあったほど。年齢の違いすぎるフラナガンとアリアーヌの恋が不道徳と思われないよう、アメリカ版では最後のシーンで、列車に乗って遠ざかる2人を見送るアリアーヌの父親が「2人はめでたく結婚した」とナレーションで語らせている。NHKBSで放送していたのもアメリカ版だった。

実際この映画の公開時、オードリー28歳でクーパー56歳。親子ほどの年の差があり、クーパーは4年後に、がんのため亡くなっている。

 

映画の中で、クーパーが女性を口説くときに繰り返し流れるのが「魅惑のワルツ」(Fascination)」という曲。

1904年にイタリアの作曲家フェルモ・ダンティ・マルケッティが作曲。別名「ジプシー(ロマ)のワルツ」を意味する「ヴァルス・ツィガーヌ」といって、もともとパリのカフェのオーケストラのためにつくられた曲。フランス語の詞がついてシャンソンとして愛好されたという。1954年に英語の詞がつき、本作のテーマ曲となった。

「魅惑のワルツ」を演奏する4人の楽団が何度も出てきて、それを見てるのも楽しかった。

 

ついでにその前に観た映画。

民放のBSで放送していたアメリカ映画「透明人間」。

2020年の作品。

原題「THE INVISIBLE MAN」

 

監督・原案・脚本リー・ワネル、出演エリザベス・モス、オリヴァー・ジャクソン=コーエン、オルディス・ホッジ、ハリエット・ダイアー、ストーム・リード、マイケル・ドーマンほか。

 

セシリア(エリザベス・モス)は、パーティーで知り合った光学系の天才科学者で大金持ちのエイドリアン(オリバー・ジャクソン=コーエン)に見初められ妻になるが、異常人格で独占支配欲が強いエイドリアンの束縛に耐えかねて逃げ出す。

すると、エイドリアンの兄で財産を管理するトム(マイケル・ドーマン)があらわれて、弟はセシリアの逃亡にショックを受けて自殺し、莫大な財産を彼女に遺したと告げる。

エイドリアンが自殺したなど信じられないセシリアは、やがて身の回りで起こる奇怪な出来事から、エイドリアンは何らかの方法で透明人間になり、自分を陥れようとしていると知るようになる。しかし、透明人間になったエイドリアンは目に見えないため、いくらエイドリアンが自分に迫ってきていると訴えても、誰にも信じてもらえない・・・。

 

背筋も凍るサイコスリラーのコワイ・コワイ映画。

原作となっているのはH・G・ウェルズの小説「透明人間」だと思うが、小説が発表されたのは1897年。以来、たびたび映画化されているのは、それだけ人には透明人間への“憧れ”があるからだろうか。

すでにプラトンは「国家」という著作の中で透明人間について語っている。「ギュゲスの指輪」という伝説上の指輪を取り上げていて、この指輪には自在に姿を隠すことができる力があるという。

H・G・ウェルズの「透明人間」もギュゲスの指輪を元にした小説であり、映画「ロード・オブ・ザ・リング」の原作であるトールキンの「指輪物語」も、ギュゲスの指輪を元にしている。

 

ただし、気になったのは、原題は「THE INVISIBLE MAN」となっていて、これは普通に訳せば「見えない人間」という意味で、かならずしも「透明」を意味しない。

「透明」を英語で表現しようとしたら「TRANSPARENCY」とか「TRANSPARENT」となるはずで、これに対して「INVISIBLE」は「目に見えない、不可視、姿を現さない」といった意味になる。

H・G・ウェルズの「THE INVISIBLE MAN」のときからすでに邦訳は「透明人間」となっているから、いまさらどうしようもないが、少なくとも原作も映画も「透明人間」ではなく「見えない人間」というのが本当なのだ。

「透明人間」という邦題には、最初に映画「透明人間」が日本で公開された1934年当時、すでに物理学者でエッセイストでもあった寺田寅彦が苦言を呈していて、「自由画稿」(1935年)というエッセーの中で次のように書いている。

 

「透明」と「不可視」とは物理学的にだいぶ意味が違う。たとえば極上等のダイアモンドや水晶はほとんど透明である。しかし決して不可視ではない。それどころか、たとえ小粒でも適当な形に加工彫琢したものは燦然として遠くからでも「視える」のである。これはこれらの物質がその周囲の空気と工学的密度を異にしているためにその境界面で光線を反射し屈折するからであって、たとえその物質中を通過する間に光のエネルギーが少しも吸収されず、すなわち完全に「透明」であっても立派に明白に顕著に「見える」ことには間違いなく、見えないわけにはどうしてもゆかないのである。

反対に不透明なものでもそれが他の不透明なものの中に包まれていれば外からは「不可視」である。

こう考えてみると「透明人間」という訳語が不適当なことだけは明白なようである。

 

このあとで寺田は、ウェルズの原作(小説「THE INVISIBLE MAN」)にはたしか「不可視」になるための物理的条件がだいたい正しく解説されていたように思う」と書いている。

科学者でもあったウェルズは、「透明」ではなく「不可視」を実現するために、人間の肉も骨も血もいっさいの組成物質の屈折率をほぼ空気の屈折率と同一にすれば不可視になると考え、それを可能にする薬と特殊な光をあてる機器を併用することで「不可視人間」をつくった。

 

ただし寺田は、ウェルズが考えた「不可視人間」は実際には実現不可能で、結局は空想にすぎないと述べていて、もし全身の屈折率が空気と同じなら、目のレンズはもはや光を収斂するレンズの役目をつとめることができなくなり、「不可視人間」は自分自身が見えなくなる、とその根本的“欠陥”を指摘している。

 

話は飛ぶが、漫画の神様・手塚治虫も「透明人間」を漫画に描いていて、それは「アラバスター」(1970~71年まで「少年チャンピオン」連載)という作品。

ここに登場するヒロインは目以外は透明人間。だから空中に目だけが浮かんでいるものの、見ることができる。ひょっとしたら、やはり科学者でもあった手塚は全身「透明」にしたら自分自身も見えなくなると知っていて目だけ残したのか、あるいは寺田のエッセーを読んでいたのかもしれない。