善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

四国の旅・その1 山の斜面のジューデンケン(重伝建)

2泊3日の日程で四国を旅してきた。

ルートは、1日目は日本三大秘境の1つといわれる徳島県の祖谷(いや)地方をめぐり、築300年という茅葺き屋根の古民家を再生させた「篪庵(ちいおり)」に宿泊。2日目は大歩危(おおぼけ)を経て高知県に入り、牧野富太郎記念館&植物園、さらには沈下橋をめぐって四万十川近くの民宿泊。3日目は“雲の上の建築群”で知られる高知と愛媛の県境の町・梼原(ゆすはら)町から四国カルストをめぐって、東京帰着。

3日間とも晴れて上々の天気。3人で行ったので和気あいあいの楽しい旅となった。

 

1日目、朝7時55分発のANA561便で高知へ。

出発が少し遅れたので高知竜馬空港着は9時半ごろ。

飛行機で行くと、東京-高知間は東京-大阪間とさほど変わらない近さを感じた。

空港でレンタカーを借り、一路、徳島へ。

 

今回の旅の一番の目的が「祖谷(いや)」に行くことだった。

ここは独特の文化が育まれたところだ。

「祖谷」と書くと「そや」と読みそうだが、「いや」が正しい。日本国語大辞典によれば「おや(祖先)の変化した「いや」に祖谷をあてたもの」とあり、日本の民俗学の父といわれる柳田國男は、「イヤ」はもともと祖霊のいる地の意味、といっている。

四国の真ん中の最奥の地で、標高1955mの剣山を始めとする山々と深いV字谷の続く渓谷に遮られて、外部と隔絶した暮らしが長く続き、独自の生活習慣や習俗、文化・民俗が継承されてきた。

旅行に行く前にそういう知識を得て、何となく以前、訪ねたことのあるスペイン・フランス国境のバスク地方や、コーカサスの国々を連想し、余計に旅情をかきたてられたものだ。

ピレネー山脈を挟むバスク地方は山と谷によって外部と隔絶したことにより、ヨーロッパの他の地域とは異なる言語を持ち、人類学的にも他の地域とは違う系統不明の民族が長く住み続けているといわれ、独自の文化を育んできた。、

コーカサス地域も、峻険なコーカサス山脈に遮られて、山あいにはさまざまな言語、文化、宗教を持った民族が複雑に入り組んで暮していて、地球上で最も民族的に多様な地域といわれている。

祖谷には、現代を生きるわれわれには信じられないような伝説が今も残っている。

平安末期の源平の戦いは、1184年の壇の浦の戦いにより源氏の勝利で終わり、平家は滅亡するが、壇の浦の戦いで海に没したとされた幼い安徳天皇や平家随一の猛将といわれた平教経(のりつね)は実は影武者で、教経は安徳天皇を守って密かに祖谷の地へやってきて、平家再興の望みをつないだものの願い叶わずにこの地に土着した、という。

 

平家の落人が住みついたという“平家伝説”は日本全国いたるところで見聞きするし、安徳天皇が壇の浦で入水してなくて平家の残党に守られて落ちのびたという伝説も各地にあるようだが、なぜ祖谷の地でもそうした伝説が残っているかといえば、外部と隔絶していることによる神秘性ゆえだろうか。

辺境にあるだけに国の支配者の力が及びにくく、外からも内からも情報も伝わりにくく、伝説が生まれやすいということもあるかもしれない。

祖谷に関しての一番古い文献として奈良時代のものがあり、それによれば、都から落ちのびた巫女の一群がこの近辺の山の中に消えた、と記しているものがあるという。都人が落ちのびやすい地域でもあったのだろう。

中央集権の力が届きにくかったのは事実のようで、豊臣の時代から江戸時代にかけて、蜂須賀氏が阿波国を支配して祖谷を幕藩体制化に組み入れようとしたが、地元土豪らによる激しい抵抗が起き、藩は直接支配を断念。土豪たちに統治をまかせる独自の支配体制を採用したという。

支配の仕方にも独自のものがあったようだ。

 

前置きが長くなったが、高知空港から高知自動車道の大豊ICを下りて、まず向かったのが東祖谷にある「落合集落」。

集落全体が「重要伝統的建造物群保存地区(重伝建地区)」に選定されている。

一般的に山村の集落というと、山のふもとの田畑が広がっている「里山の風景」のイメージがあるが、落合集落の風景はまるで違う。

高低差約390メートルにも及ぶ山の斜面に、古い民家がまるで張りつくように点在している。民家は古いもので18世紀にさかのぼり、江戸時代のものも多く現存している。

斜面に建つ家や畑を支えているのが伝統的な石垣であり、集落内をうねるようにのびる里道などと相まって、独特の景観を形づくっている。

2005年、このような歴史的景観の希少性が評価され、集落全体が重伝建(ジューデンケン)地区に選定された。

谷の反対側にある落合集落展望所からの眺め。

山の急斜面に張りつくように家々が建っているのがよくわかる。

各家々は等高線に沿って横に長くなっていて、太陽の光を精一杯浴びようとしている。

 

落合集落のような山の斜面に家々が建つ風景は、実は落合集落だけではなく、祖谷地域のあちこちで見られる。

重伝建地区の指定を受けた落合集落については保存・活用のガイドラインが作成され、茅葺きの復元を目指しある程度の支援が行われてきた。しかし、重伝建地区以外の集落の民家についての支援は不十分なようで、重伝建地区内と地区外の支援の格差が、まちづくりの障害になていなければいいのだが、と思う。

 

収穫したイネやソバを干す柵があちこちにあった。「ハデ」と呼ばれる。

古くは、ヒエやアワ、ミツマタなどの皮なども干していたという。

 

落合集落内にある「長岡家住宅」。

明治34年に建てられた茅葺き屋根の住宅。

「脇土居」あるいは「西土居」と呼ばれ、落合でも支配階級に属する家であったといわれている。土居は中世のころの屋敷や集落の周囲に防御のためにめぐらした土塁の意味だが、転じて土豪の屋敷を指すという。

 

中に入ると、天井が高い、といより天井がない。

囲炉裏の煙を逃す意味もあるだろうが、昔このあたりは葉タバコの産地で、屋根裏まで見通せる空間を利用して葉タバコを吊るし、囲炉裏の火で乾燥させていたのだそうだ。

 

車輪のついた重そうな家具が置かれてあった。

「車櫃(くるまびつ)」といって、嫁入り道具がこの中に入っている。

火事などのときにこれをひいて逃げ出すのだとか。

 

欄間の彫刻が素朴で味わい深い。

欄間彫刻の職人の作というより、大工さんが仕事の合間に自慢の腕を見せたくて彫ったのだろうか。

 

神棚も黒光りしていて立派だった。

 

床板を外すと、そこは想像以上に深い穴蔵。サツマイモなどを貯蔵するためのイモ壺だそうだ。

 

壁は土壁で、その外側に「ひしゃぎ竹」と呼ばれる割竹を被せる独特の仕上げとなっていた。

 

家の土台となっている青い石。

祖谷の谷間で採れる緑色片岩だという。平たく割れる変成岩の一種で、青みがかっているので青石とも呼ばれる。

 

落合集落の中を歩く。

屋根の上に乗っているのは日干し中の薬草だろうか。

 

道端にはミツバチの巣箱があった。

このあたりは昔からハチミツ生産が盛んで、貝原益軒の「大和本草」には「蜂蜜は伊勢、紀州の熊野、尾張、土佐、そのほか諸国より出る。土佐から出るものを好品とする」とある。

土佐のハチミツはほかの生産地と比べても品質がよかったようで、地続きの祖谷もその影響を受けたに違いない。

 

家々を縫うように「里道(りどう)」と呼ばれる細道がめぐらされているが、急坂の里道は昇り降りがつらいのではと思う。高齢化や人口減少で、急坂の里道を利用する人は減っているようだ。

里道で咲いていた可憐な花。

 

地元産の青石は石垣などにも使われていて、祖谷の景観に一役買っている。

その土地の石を使うのはまさに地産地消

その土地で採れる石の色が、その町の色になっているものだ。

 

落合集落のほぼ中央にある三所神社

この神社の社叢は面積789・2平方mもあり、イロハカエデ、ウラジロガシ、ヤマトアオダモ、スギ、カゴノキなど冷温帯樹、暖帯樹の巨木が自生し、推移を示す代表的樹林となっており、徳島県の天然記念物に指されている。

(以下つづく)