群馬県中之条町で開催中の国際現代芸術祭「中之条ビエンナーレ」(町と実行委員会などが主催、10月9日まで)の続き。
中之条町で見つけた生きもの。
「伊参エリア」にある「やませ」は、江戸時代末期の約170年前に建てられた県内最大級の民家。 材木問屋として財を成した新保家の住宅(県の重要文化財)で、屋号をとって「やませ」と呼ばれる。
神保家は1829年(文政12年)、江戸の大火で巨額の富を得たといわれているが、材木問屋を営んでいた当時の名残を感じる材木の数々や養蚕道具が残されている。
2階の屋根裏の小屋組みが剥き出しになった独特な空間の暗闇に浮かぶのが、西島雄志「環(かん)」。
2頭のシカが光に照らされ輝いている。
天井から落ちてくる光の粒を身にまとい、神々しいばかりの神秘的なシカの姿。
いったい何でできているのかとよく見ると、それは丸いコインのようなもので、さらによく見ると、銅線をコイル状に巻いたものだった。
作者の説明によれば、材料は銅線とテグス。ラジオペンチを使って銅線をクルクル巻いてパーツをつくり、ある程度溜まってきたら、つくりたい形に合わせてロウ付けというガス溶接のような技法で繋いでいくのだという。
あとは現場で吊るしながら形を決めていて作品が完成する。
旧家の暗い屋根裏部屋の空間と光に照らされた神々しきシカの、何と美しいマッチング。
作者の西島雄志は1969年神奈川県生まれの彫刻家。「存在」や「気配」をテーマに彫刻を制作し、2011年から中之条ビエンナーレに参加していて、2021年からは中之条町に移住して活動しているという。
朝早くに家を出て、午前、午後とビエンナーレの会場をまわり、夕方5時前に本日の宿「四万(しま)たむら」に到着。
「四万の病に効く」というので四万温泉。その中でも、室町時代から湯治場として栄え、500年もの歴史を持っているという老舗の温泉宿。
玄関は入母屋造りの茅葺屋根になっていて、天保五年(1834年)に建て替えられたものだとか。
敷地内に7本もの自家源泉を持っていて、館内は広々。7つある湯のどれに入るかは選り取り見取りなので、1泊じゃもったいないぐらい。
夕食前には檜風呂の「御夢想の湯」と露天風呂を満喫。翌朝は大浴場の「甍の湯」と、もうひとつの露天風呂。
夕食は本格懐石料理。でき立て揚げ立ての料理が次々出てきた。
翌日の朝食はおかゆつき。
朝9時すぎに宿を出発。
「四万温泉エリア」の旧第三小学校では、教室や校庭などに15組が作品を公開していた。
中でも目を引いたのが体育館を埋め尽くすような巨大な絵。
いくらまりえ「HELLO」。
館内に張った布に描いていく制作の過程が動画でも紹介されているが、真っ白な布に、掃除道具のモップみたいなものを使って自由奔放に線が引かれ色が塗られ、さまざまな風景や形に変化していく。
下から見ても、上から見ても、とてもダイナミックで、そのスケールの大きさに圧倒された。
最後に行くのは「六合(くに)エリア」。
途中の道の駅「六合」で昼食。やっぱりそば。
細切りしたダイコンが載っていて、さらにダイコンおろしもついていた。
この日は朝から雨が降ったりやんだりで、山が霞んで見えた。
ところで、「六合エリア」の「六合」はなぜ「六合(くに)」なのか?
かつてこの地域は六合村といった。
村になる以前には小雨、赤岩、生須、太子(おおし)、日影、入山の6つの独立した村があり、それらを合わせたので「六合」の名が誕生した。
さらに古事記や日本書紀によれば、人の支配の及ぶ範囲である天と地と東西南北の6つを合わせたものが「国」を表すことから、「六合」を「くに」と読んでいるのだとか。
六合村の西隣りは草津町。草津町には草津白根山があり、主峰の本白根山が六合村からよく見えるのだそうだ(あいにく曇っててわからなかったが)。
本白根山は高山植物の女王といわれるコマクサの群生地だったが、戦後、コマクサは結核の薬とされて盗掘され、ほとんど絶滅しかかった。
毎日、自宅の庭や畑から白根の美しい山並みを見ていたのが六合村に住む山口雄平さんという人で、このままでは花が可哀想、というので、草津町でコマクサの苗を所有していた置屋の女将のおタネさんから苗1株とタネをもらい受け、自宅で栽培して増やした苗をコツコツ自力で本白根山に植えていった。
やがて地元の中学生たちが移植を手伝うようになり、本白根山にコマクサの大群落が復活した――というエピソードが残っている。
六合村は2010年(平成22年)中之条町と合併し、今、村はない。
「太子」と書いて「おおし」と読ませる。
日本鋼管群馬鉄山の専用線として1945年(昭和20年)に開業。
六合村には草津白根山の火山堆積物の上にできた鉄鉱石を産する群馬鉄山があった。そこから掘り出した鉄鉱石を京浜方面に貨車で運び出す専用駅が太子駅だった。
1961年(昭和36年)からは旅客も運ぶようになる。
そのころの運賃表が残っていて、「東京電環720円」とある。隣村の草津温泉までは120円。
東京電環とは東京電車環状線の略で、今でいえば東京山手線内ということになる。
群馬鉄山は1965年、資源が枯渇したことから採掘を停止。やがて鉱石輸送もとまり、1971年に廃線となった。
現在は、復元されたホームやレール、駅舎が当時の様子を再現している。
旧太子駅に展示されているのは長坂絵夢「鉄、還る山」。
長坂は自然や生物の中で循環する「鉄」に着目し、腐食により自然物へと還(かえ)る様相を作品にしているという。
土中の鉄が酸化してできる酸化第二鉄を主成分とする赤色顔料ベンガラの産地を探しているうち、六合にあるチャツボミゴケ群生地にたどり着いたことが今回の作品につながったという。
チャツボミゴケ群生地とは、すなわち群馬鉄山だった。
群馬鉄山では、生物が鉱石を生成するバイオミネラリゼーションによって褐鉄鉱床が形成されているため、閉山した今もチャツボミゴケと鉄バクテリアの生物活動の副産物として鉄鉱石が生成される現象が今も続いているのだという。
鉱石の上に生えているのがチャツボミゴケ。
群馬鉄山の閉山後、跡地にはコナラ、ミズナラ、ミズキといった木々が植えられ、里山や森になっているという。
長坂は述べている。
「素材の成り立ちを辿ると、そこには人の営みや自然の仕組みが見えてくる。この希少な風景との出会いを、かつて鉄鉱石の輸送を担っていた旧太子駅で展示したいと思う」
「六合エリア」の赤岩集落には12の作品が展示されているが、ここは国が選定した「重要伝統的建造物群保存地区」、いわゆる「重伝建」地区である。
河岸段丘と山の境の傾斜地にあり、地区の中を南北に走る赤岩本道沿いに集落が形成されて背後(東側)には山々が連なり、崖が切り立った独特の山村風景をつくり出している。
2006年(平成18年)、群馬県内では初めて重伝建地区に選定されたが、建物群は明治から大正、昭和初期を中心に建てられた近代養蚕農家であるものの、屋敷や農地の利用形態、宗教施設や墓地の配置など、集落の骨格としては江戸時代以来の歴史をそのまま伝えているという。
赤岩集落の家並み。
傾斜地であるため水利に恵まれず、田畑からの収穫だけでは生計が成り立つ家は少なかった。このため、幕末あたりから副業としての養蚕が発達し、やがてこの地域の主要産業となっていった。
3階建ての湯本家。
1、2階は江戸時代後期の1806年(文化3年)築で、3階は蚕を飼う蚕室として明治30年の増築という。
特徴的なのは、1階と2階の境に外壁より外側に梁を出させた「出梁(でばり)」構造だ。
これは湯本家だけでなく養蚕農家に特徴的な建築法というが、梁を外壁より外側に張り出させることによりその上に通路や手すりを設置できるようにして、養蚕のための作業空間をなるべく広く確保するための工夫という。
桁(けた)を突き出す場合は出桁造りといって、船の両舷に張り出した「せがい」に似ていることからせがい造りとも呼ばれる。
こうした出梁や出桁(せがい)の工法は、2階をせり出すことで床面積を減らさずに庇と軒下空間を直射日光や雨から守る効果もたらす、また建物のファサードに彫りの深い陰影をつくりだすなど、機能的にもデザイン的にも優れているというので、現代建築に取り入れているところもあるようだ。
湯本家は江戸時代に9代にわたり医師を務めた名家で、逃亡中の蘭学者、高野長英をかくまったとされる家として知られる。同家には江戸時代の植物標本が伝わっていて、日本の植物分類学の父といわれる牧野富太郎に鑑定を依頼したところ、間違いがほとんどないことを絶賛されたという逸話も残っているという。
牧野富太郎のエピソードはなるほどと思うが、高野長英と湯川家とはどんな関係にあったのだろうか?
実は中之条町を中心とした吾妻地域は、江戸末期、長崎でシーボルトに学んだあと、江戸で塾を開いていた長英の門人が多くいたのだという。
現在の中之条町沢渡に住んでいた福田浩斎(五代目宗禎、医者と宿屋を兼業)は漢方医だったが、オランダ医学に興味を持つようになった。そこで、蘭学の第一人者だった高野長英に教えを乞おうと思い立った。中之条町を中心とした地に医学を熱心に研究する者たちがいるので温泉での休養方々中之条にお越し願いたい旨を長英に伝えると、長英は1831年(天保2年)、中之条町を訪れた。
その後も長英はこの地を何度か訪れ、蘭学の講義や治療をするとともに、榛名山で薬草の採集を行ったとも伝えられている。
その後、開国を主張した長英は幕府から弾圧を受け(蛮社の獄)、江戸・伝馬町の牢屋敷にとらわれる。のちに長英は牢屋敷の火災に乗じて脱獄、逃亡。中之条の門人たちを頼って吾妻方面に逃げのびる。
このときの長英の潜伏先として語り伝えられているうちの1つが湯本家だった。
長英は六合村の山中に薬草採取に出かけた際に湯本家に宿泊していて、その縁から長英は匿われ、匿った「長英の間」が現在も2階に残っているという。ふすまを開けると屋敷裏に出られ、縁の下からも裏へ抜けられる構造になっていたのだとか。
鏡学院護摩堂のタニヤ・P・ジョンソン「神社の転生」。
作者は南アフリカ出身でカナダに住むアーティスト。
この作品は、生命力、元素、目に見えないもの、根源的なものへの捧げもの、という。
道端の道祖神。
1本の木から伸びた枝葉を実に見事に剪定して、立派な垣根になっていた。
今も残る石積みの屋根。
赤岩神社参道にあった渡辺辰吾「鏡界の鳥居」。
暗くなると赤く光るというが、夕方5時以降に点灯するというので見ることできず。
夕暮れが近づいてきて、一路東京へ。
いろんなアートに出会えた2日間だった。