善福寺公園めぐり

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初芝居に思う「十六夜清心」と「切られ与三」

初芝居は4日の歌舞伎座「壽 初春大歌舞伎」。

やっぱり初芝居は正月気分が抜けないうちに観ようと、松の内に行く。

客席には和服姿の女性もチラホラ。

観たのは第3部の通し狂言十六夜清心(いざよいせいしん)」。

清心を幸四郎十六夜七之助、白蓮を梅玉

 

江戸時代も末、幕末のころの世相を映し出した生世話狂言の代表作で、正しくは「花街模様薊色縫(さともようあざみのいろぬい)」。

1859年(安政6年)2月初演。二代目河竹新七(かわたけしんしち)こと黙阿弥44歳のときの作品。

1805年(文化2年)に小塚原で処刑された盗賊・鬼坊主清吉をモデルとして、これに1855年安政2年)に浪人・藤岡藤十郎と無宿の富蔵が江戸城の御金蔵を破り4千両を盗んだ事件、さらには上野寛永寺の僧と遊女の心中事件を題材に取り込み、1つの物語としている。

清元の「梅柳中宵月(うめやなぎなかもよいづき)」による心中の道行から物語は始まり、幸四郎七之助が演じる男女の美しくも悲しい別れ、そして後半では前半とはガラリと変わって、2人による悪役の魅力を楽しませてくれるところが見どころ。

 

清元の道行浄瑠璃を最初に持ってきて、いきなり心中から始めるなんてなかなか奇抜で、黙阿弥はさすが、と思ったら、のちの改作によるものらしい。

何しろ160年も前の作品。名人・黙阿弥の作といっても、その後何度も上演される中で、より磨きをかけて作品を昇華させていったということなのだろう。

観ていて思ったのが、出だしのところは「桜姫東文章」の修行僧清玄と稚児白菊丸との心中の場面に似てるナーと思ったのと、それ以上に、話のスジ全体が通称「切られ与三」で知られる「与話情浮名横櫛」に似てるということだった。

桜姫東文章」は四代目鶴屋南北作による1817年(文化14年)の作品だが、「与話情」は「十六夜清心」より6年前の1853年(嘉永6年)初演の三代目瀬川如皐(じょこう)の作(今年4月に歌舞伎座仁左衛門玉三郎により上演予定)。

どこが似てるかというと、「十六夜」では、遊女の十六夜は鎌倉極楽寺の僧・清心と心中しようと川に身を投げるも舟遊びをしていた俳諧師白蓮に救われるが、「与話情」でも、与三郎との密会がバレてお富が海に飛び込むと、夜釣りをしていた和泉屋の大番頭の多左衛門に救われる。

死んだと思っていた恋人同士が再会するのも同じだし、どちらも後半に「ゆすり」の場面があるが、「十六夜」は「与話情」のパロディといっていいほど似ている。

ゆすられた方が気前よくポンと金を渡すのも同じだし、ゆすられた方は実は血縁者であったというのも同じで、「与話情」でゆすられた多左衛門はお富の実の兄であるとわかるし、「十六夜」では清吉となった清心は白蓮の実の弟とわかる。

切られ与三郎の有名なセリフ「しがねえ恋の情けが仇・・・」は七五調で聞かせるが、「十六夜」も作者が黙阿弥だけに七五調。

これだけソックリだと、同じ設定というかアイデアをもとにして2つの芝居をつくったのでは?と思えるほどだ。

 

何しろ江戸時代は今のように著作権なんかない時代。狂言台本は作者には帰属せず、座元や役者の都合でいくらでも書き換えられただろう。実際、忠臣蔵五段目の斧定九郎が、元の台本ではむさ苦しい山賊だったのが、初代中村仲蔵の工夫で白塗りのニヒルな浪人姿に大変身して好評を博した話は、落語の「中村仲蔵」で有名だ。

では、「与話情」と「十六夜」はどうだったのか?

「与話情」は1853年(嘉永6年)1月が初演で、その6年後の1859年(安政6年)2月に初演されたのが「十六夜」だった。

「与話情」の作者は三代目瀬川如皐(1806年~81年)で、「十六夜清心」の作者は河竹黙阿弥(1816年~93年)。如皐のほうが10歳年上であるものの2人とも五代目鶴屋南北の門下にあり、ほぼ同時代の狂言作家であるとともに、南北の兄弟弟子ということでライバル関係にあった。

しかし、黙阿弥は晴れて河原崎座の立作者になったものの一本立ちの創作を世に問う機会はなかなかなく、先に売れたのは如皐だったという。

黙阿弥の曾孫にあたる演劇学者の河竹登志夫氏が「黙阿弥」と題する評伝を書いていて、それによると、座元が保守的で、黙阿弥はなかなか新作を書かせてもらえなかったらしい。一方、如皐のほうは、幕末の名優・四代目市川小團次と組んでヒット作を次々と出していた。如皐作で小團次を主役に据えた「東山桜荘子(佐倉義民伝)」は日本最初の農民劇といわれ、小團次の熱演もあって大ヒットロングランしたといわれる。

如皐は黙阿弥より年上だが作者になったのは遅い。

「その如皐に先を越されて、黙阿弥ははじめていい知れぬ屈辱感におそわれた。こんな自分があったかと自分でおどろくほどの敵愾心がわき、競争心にかられた」(「黙阿弥」より)

そこで、すぐにいくつかの腹案を用意して座元に掛け合うが、聞いてくれない。

焦り、悩んだ黙阿弥に追討ちをかけたのが、如皐作の「与話情」だった。今では七五調のセリフというと黙阿弥の専売特許だが、黙阿弥に先駆けて七五調を取り入れたのが如皐だった。

「如皐の名はますます高まり、黙阿弥の失意はその極に達した。大川にうつる灯影がふと精霊の火にみえて、いっそ身を投げようかと橋の上を行きつ戻りつする夜もあった」(「黙阿弥」より)

このとき黙阿弥38歳。しかし、やがて彼に幸運が訪れる。

「与話情」の半年後、筑後国・有馬家の猫騒動を扱った如皐の新作が有馬家の横やりで上演禁止となったこともあってか、如皐の作品はふるわなくなり、次第に凋落していく。

なぜふるわなくなったかというと、河竹登志夫氏によれば、「(如皐は)看板下絵も細密で色まで塗らねば気がすまず、ト書き舞台書も精細を極める丹念さが狂言を冗長にした。・・・凋落の一途をたどるのは、(如皐の)あまりの潔癖さ頑固さ、疳癖のつよさのためだった」という。そんな如皐と衝突したのが原因かどうかはわからないが、彼とコンビを組んでいた小團次が袂を分かち、如皐のいる中村座から、黙阿弥のいる河原崎屋に座頭格として移ってきた。これにより小團次は黙阿弥とコンビを組むことになる。

黙阿弥が小團次のために書いた「都鳥廓白波」(天保元年の二代目勝俵蔵作の「桜清水清玄」を大幅に書き換えたもの)が大当たりとなり、これが彼の出世作となった。その後も「三人吉三廓初買」「青砥稿花紅彩画」などの後世に残る作品を産み出していく。

十六夜清心」で清心役をつとめたのも四代目市川小團次だった。

こうした経緯から考えると、黙阿弥の頭の中にはライバルでありながら先を越された如皐「与話情」のことがずっと離れずにあったに違いない。あえてパロディーをつくって、「与話情」を超える作品をどうぞ見てください、と世に問うたのかもしれない。

江戸っ子の粋と心意気ここにあり、ということだろうか。

才能も大事だが、ライバルに負けない心、“負けん気”こそが創造の源泉だったのかもしれない。