善福寺公園めぐり

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能の指南書のような小説 青山文平「跳ぶ男」

青山文平「跳ぶ男」(文春文庫)を読む。

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江戸時代を舞台とした時代小説だ。

時は江戸後期、表高も実高も2万2千石しかない貧しき小藩・藤戸藩。領地の大半が高い台地にあるというギアナ高地みたいな国であるため、川が流れてもみんな隣国に行ってしまい、作物の実りは少ない。死者を埋葬する土地すらなく、埋葬しても大雨が降れば亡骸は海へと流されてしまう。

唯一誇れるのは武家の「式楽」である能で、そこに一縷の望みを託して藩の窮状を何とかしようと仕かけた乾坤一擲の秘策を軸に据えた小説だ。

主人公は、藩お抱えの能役者の子として生まれながら、幼くして居場所をなくし生き残ることで精一杯だった孤独な15歳の少年。16歳で急逝した藩主の身代わりとして江戸に向かい、能を武器に弱小藩を蘇らせようとするが・・・。

 

時代小説というより、能の神髄を説く――ということは人間の本質にも迫るものだろうが――指南書みたいな小説。

能の各演目(曲というらしい)についての詳しい説明があり、ナミの解説書よりよくわかる。

取り上げられているのは「関寺小町」「石橋(しゃっきょう)」「養老」「隅田川」「井筒」「野宮」「俊寛」「船弁慶」「道成寺」「猩猩(しょうじょう)」「百萬」「東北(とうぼく)」「鵺(ぬえ)」などなど。

 

江戸時代、能は「式楽」(公儀の儀式に用いる音楽・舞踊)と定められ、幕府の年中行事・儀礼に欠かせない武家の教養として、とりわけ重要な位置を占めていたという。

能のルーツは、8世紀ごろに中国大陸から渡来した「散楽(さんがく)」にあるといわれる。

それが日本古来の芸能とも結びついて「猿楽」と呼ばれるようになり、室町時代のころから武士階級に気に入られてその庇護を受けるようになっていく。

役者を庇護するだけでなく、「幽玄」という能の精神に共鳴したのか、武士自らが演者ともなっていって、織田信長徳川家康細川幽斎といった戦国武将も能をたしなむようになっていった。

信長や家康は鼓や謡をやる程度だったらしいが、自ら能を演じたのは関白秀吉で、部下にも勧めて、文禄2年(1593)10月5日、御所で「禁中能」を開催し、備前・美作の戦国大名だった宇喜多秀家(当時22歳)に命じて能を披露させたと記録にある。

江戸時代になっても家康以来、代々の将軍は能を愛好してきたが、最も能に熱心だったのは第5代将軍・徳川綱吉。「能狂」といわれるほどで、自ら能を舞い、それを人に見せることを好んだほか、側近・諸大名に能を舞うことを強制したり、気に入った能役者を士分に取り立てたりもしたという。

 

能を発展させた最大の貢献者といえば世阿弥だろう。「幽玄」を志した父・観阿弥のあとを継ぎ、能を歌舞主体の芸能に磨き上げ、「夢幻能」というスタイルを確立させた。

能は生きている人間のみが登場する現在能と、霊的な存在が主人公となる夢幻能とがあるが、特に能に特徴的なのは夢幻能であり、本書でも、「能を能たらしめている曲はほぼ例外なく、冥界に去った者をシテとしてこの世に蘇らせる」夢幻能である、と述べている。

夢幻能の話のスジはだいたい決まっていて、今を生きるワキの僧が旅の途中でいわくありげな里の者と出会う。話をかわすうちに里の者は生前の自分の正体を明かす。中入りのあとは、シテの霊がかつての姿でこの世に立ち現れ、夢幻のごとくに美しく舞い納めて、消えていく。

来年は世阿弥の生誕660年・没後580年だそうだが、彼がつくり出した夢幻能は500年以上たった今も、私たち見る者の心をとらえて離さない。

 

本書で紹介されている能のうち、おもしろかったのが「東北」についてのエピソード。

世阿弥の作ともいわれるが、「東北」というのは東北地方の東北をいってるのではなく、京にある御所の東北、つまり鬼門の方角を指している。

 

御所の鬼門の方角に東北院という寺があり、ここを訪れた東国より行脚の僧が梅の木のあまりの美しさに魅了され、その由来を尋ねる。その昔、中宮に仕えた和泉式部が手ずから植え、寵愛した軒端の梅であるということだった。

僧は木陰に座して法華経を唱えて供養すると、月夜の闇の合間からあらわれたのは和泉式部の霊で、昔日の東北院での生活を語り出す。昔、関白藤原道長がこの東北院の門前を通りながら法華経を読むのを聞いて、「門の外(そと)法(のり)の車の音聞けば我も火宅(かたく)を出ぬべきかな」の歌を詠んだことを振り返り、詠歌の功徳を説いて歌を詠んできたことで得た仏の道を語って消える。旅の僧が夢からさめると、かすかに梅の香りが漂っていた・・・。

 

和泉式部は恋多き情熱的な女性として知られる。

色恋の世界に生きたというのは、仏教の教えを守らなかったということになるが、そういう女性だからこそ仏は、救いの手を差しのべようとしたのではないか。歌の力によって火宅の苦しみからのがれることができ、彼女は歌舞の菩薩になったのだった。

 

本書では和泉式部の歌が紹介されているが、1つは「和泉式部集 続集」の次の歌。

 

思ひきやありて忘れぬおのが身を君が形見になさむものとは

 

考えてみたこともあっただろうか、忘れようとしても忘れられない、あなたに愛されたこの身を、あなたの形見として見ようだなどと。

狂おしいほどに契った親王が亡くなり、なにゆえ髪を下ろさないのか、つまり出家しないのか、尼にならないのかと問われて詠んだ歌とされていて、親王が慈しんだ自分の体が形見なのだから、とても尼にはなれない、といっている。

何とも艶かしい歌。

 

もう1首、「後拾遺和歌集」所収の歌。

 

黒髪の乱れもしらずうちふせばまづかきやりし人ぞ恋しき

 

黒髪の乱れるのもかまわず横になっていると、寄り添ってこの髪をかき撫でてくれた人が恋しく思われる。

たしかに和泉式部は火宅の人だ。