善福寺公園めぐり

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「紐付ける」の本当の意味は?

最近、テレビのニュースで続けざまに「紐(ひも)付ける」という言葉を聞いた。

あるお菓子メーカーの広報担当者が「ニーズと当社の技術を紐付けて・・・」みたいなことをインタビューで答えていて、別の番組では女性キャスターが新型コロナウイルスの問題で感染者と感染源との関係が「紐付けられた」というようなことをいっていた。

 

聞いていて違和感を覚えた。

2人はいずれも30代ぐらいの広報担当者とキャスターだったが、それより年代が上のオジサン・オバサンにとっては「紐」とか「紐付き」という言葉はあんまりいいイメージはない。

改めて国語辞典で調べてみても、紐は、物をつないだり束ねたりするときに使う普通の意味ももちろんあるが、特にカタカナでヒモなどと書くときは、「情婦の行動をしばって働かせ、それで暮らしている男。さらに広く、背後からあやつって、その利益を吸い上げるような存在」とあって、「紐付き」は「「行動がしばられる(結果になる)背後関係があること」とあり、例として「社長の紐付きの社員」「あの女は紐付きさ」があげられていた。(岩波国語辞典より)

 

そんなことを知らない最近の若い人はまるで違った意味で「紐付き」を使っているらしいのだが、なぜだろうと調べてみたら、元々はIT関連用語から始まっているようだ。

コンピュータ用語に「bind(バインド)」という言葉がある。特定のデータと別のデータを相互に関連づけるときに使われているそうだが、れを日本語で表現するとき、関連ける、相互に結びつけるという意味で「紐付ける」という言葉が使われていて次第にこれが広がっていってIT関連でなくても一般用語としても認知されてきているようだ。

 

しかし、本来、紐というのはわれわれ日本人にとって非常に深い意味が込められている。

何しろかつて日本は紐で結ぶことで成り立っている社会だった。典型例が今も変わらない剣道の防具で、胴着を着て袴を履き、面、胴の防具の装着に至るまで、すべて紐で結ぶ。日本社会は、紐で結び、紐を解く文化が浸透していたのだ。

生活に関わりの深いものであるがゆえに、紐は単に物を結ぶだけではなく、人と人の心を結ぶ意味でも使われるようになっていった。それは男女の関係にも及んでいて、今も生きている言葉としてつかわれているのが「ヒモ」なのだ。

 

「ヒモ」の起源をたどると、男と女は紐で結ばれているという呪術的(おまじない的)観念にたどりつくとの説がある。

つまり、夫婦や恋人が別れる際、互いに紐を結び合い、再び会う日までその紐を解かないと誓った“魂結び”が「ヒモ」の起源だというのだ。

 

万葉集」の恋の歌の中には「紐」がたくさん出てくる。

ここでいう紐とは下紐(したひも)のことで、表面からは見えない下着(下裳(したも)や下袴(したばかま))に付いている紐のことだという。

たとえば大伴家持の次の歌。

 

忘れ草 我が下紐(したひも)に付けたれど 醜(しこ)の醜草(しこくさ)言(こと)にしありけり

忘れな草を持っているとつらいことを忘れられるというので下着の紐につけたのに、ひどい草です。少しもあなたのことを忘れられない)

 

以下は詠み人知らずの歌。

男女の別離のとき、互いに下紐を結び合う習慣があったという。それを示すのが次の歌。

 

二人して 結びし紐をひとりして 我(あれ)は解きみじ直(ただ)に逢ふまでは

(あなたとお別れするときに、ふたりで結んだ下紐をひとりで解いて他の女(ひと)と寝てみようとは思わない。あなたにじかに逢うまでは)

 

つまり、下紐を解くというのは衣服を脱ぐの意から、情愛のあらわれ、男女が契りを結ぶことを意味していた。

 

人の見る 上は結びて人の見ぬ 下紐開けて恋ふる日そ多き

(人が見る上衣の紐は結んでいるけれども、人に見えない下着の紐は結ばずに開けておいて、あの方との逢瀬を待ち焦がれている日が続いています)

 

下紐がひとりでに解けるのは、思う人に会える前兆、または恋い慕われている証拠だと信じられてもいたようだ。

 

我妹子(わぎもこ)し 我を偲ふらし草枕 旅の丸寝に下紐解けぬ

(いとしい妻が私を慕っているに違いない。旅で着物のまま寝たら下着の紐がほどけたよ)

 

源氏物語」にも下紐が登場する。

「夕顔」の巻で光源氏が詠んだ歌。

泣く泣くも今日は我が結ふ下紐を いづれの世にか解けて見るべき

(泣きながらこの下紐を一人で結んだとしても、いつの世にそれを解いてくれるあの人と逢うことができるというのだろうか)

 

平安時代にあっても「下紐を結ぶ」のは男女の愛情の証であり、「紐を解く」のは男女が打ち解けて睦みあうことを意味しているのだ。

 

百人一首」にも載っている式子内親王の歌はもっとすごいことをいっている。

 

玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

(我が命よ、絶えてしまうのなら絶えてしまいなさい。このまま生き長らえていると堪え忍ぶ心が弱って(心に秘めた恋が人に知られて)しまうと困るから)

 

この歌は、「忍ぶる恋」というテーマで詠まれたもの。

玉の緒は首飾りなどに使われる玉を貫いた緒(お=紐)の意味だが、ここでは魂と体とをつなぐ紐をあらわし、命を意味する。和歌で詠まれるときは恋に思い乱れる心を歌ったり、玉の緒を結ぶことで再会を期したり、2人の固い絆にたとえたりする例がある。

この歌では、「玉」は「魂(たましい)」に通じるところから霊魂が身から離れないよう繋ぎ止めておく紐の意から、「玉の緒よ 絶えなば絶えね」つまり「私なんかもう死んでしまってもいい」といっているのだ。

 

式子内親王は出家した身であるため生涯独身でなければいけなかった。そのため、恋を叶えるどころか恋心を人に伝えることすらできない。心に秘めた恋があるのに、長く生きれば生きるほど、黙っていることができなくなってしまう。だったらいっそ命が絶えてしまってもいい、と歌っている。

 

彼女は藤原定家と恋愛関係にあったともいわれ、その話は謡曲「定家」に登場している。

旅の僧があずまやに雨宿りすると、式子内親王の霊があらわれる。かつて内親王と定家とは恋仲だったが、世間に浮名が立つと困るので逢うことが叶わず、やがて内親王は亡くなってしまった。それでも内親王を定家が恋い慕ったため、内親王の墓に今なお定家の執心が変じた葛(かずら)が「定家葛」となって絡みついて離れない。おかげで呪縛の苦しみから逃れることができない、と語ると、僧は成仏せよと回向する。僧が唱える法華経の功徳により、まとわりついた葛はいったんはほどけるが、なぜか内親王の霊は再び葛をまとわりつかせ、墓の中へと消えていく、という内容だ。

葛とはツル性の植物のことで、木に絡みつくとツルで覆ってしまうほどの生命力を持つ。

「定家葛」は実在する植物だが(わが家の近所でも毎年初夏になると花を咲かせる)、ここでいう葛のツルとは、内親王と定家とを結ぶヒモといえるかもしれない。

 

 

このように、ヒモはもともと男と女の体と心を固く強くつなぐものだったのである。