木曜日朝の善福寺公園は曇り。朝から気温高くあたたかい。
先日、上池で見つけた浮草に咲く黄色い可憐な花。
散歩仲間で植物に詳しい人に聞いたら、アサザ(浅沙、阿佐佐)とわかった。
咲くのは晴れのときだけで、くもりや雨の日は咲かない。
それだからか、けさは花を閉じていた。
しかも、晴れた日の午前中に開き、昼頃には萎んでしまう半日花という。
「朝早く咲く」が転じて「アササク」→「アサザ」となったとの説があるそうだ。
アサザは氷河期の生き残りといわれるミツガシワの仲間で、ミツガシワ同様、絶滅が心配されている希少な植物という。
都市化の進行で池や沼など生育に適した場所が減り、現在は準絶滅危惧となっていて、都内では都立水元公園が唯一の自生地となっているという。
同じ都立公園というので保全のため株を分けてもらい、善福寺公園でも増やそうとしているのかもしれない。
けさのカワセミは上池に1羽。
オスかメスか遠くてわからないが。
遊歩道の道端で咲くのはフユサンゴか。
秋から冬にかけてつける実を珊瑚に見立ててフユサンゴ(冬珊瑚)というわけだが、ナスの仲間。
ナスの仲間はどれも似たような花を咲かせる。
きのう見つけたイオウイロハシリグモにそっくりだが、実はかなり小さい。
幼体だろうか、近くにたくさんいたから、このへんでいっせいに生まれたのか。
ノイバラの甘い香りに誘われていろんな虫が集まっていた。
ミツバチがホバリングしている。
花に埋もれているのは大型のクマバチだろうか。
同じように花の蜜を吸って至福の感じなのはコガネムシか。
このあたりできのう、サンコウチョウを見たとか、キビタキ、あるいはセンダイムシクイがあらわれたというので目を凝らすと、茂みの中にいたのは3羽のシジュウカラだった。
サンコウチョウやキビタキは1日待たないかぎりなかなか見られない。
葉っぱに張り付くようにしているガ。
本人としては枯れ葉に擬態しているのだろうか。
こちらはさらに小さくて枯れ葉の破片みたいなガ。
近寄ってよく見ると、けっこう細かくて美しい模様をしている。
いつの間にやらテイカカズラ(定家葛)が咲いていた。
太い木の幹にまとわりつくように伸びて、たくさんの花を咲かせている。
能の「定家」に由来して名がついたが、もともとは「真拆葛(あるいは柾葛、マサキノカズラ)」と呼ばれ、「古事記」にも登場している花だ。
アマテラスオオミカミ(天照大神)が天岩戸にこもったとき、アメノウズメノミコト(天宇受売命)が神がかりして舞い踊り、神々の笑いを誘ってアマテラスオオミカミの心を動かし、岩戸開きに成功したが、このときアメノウズメノミコトが髪にまとったのがマサキカズラだった。
そのマサキカズラがテイカカズラに変わったのは、平安末期から鎌倉初期の公家で歌人の藤原定家と、後白河天皇の皇女、式子内親王にまつわる“恋物語”の伝説が由来となっている。
定家は1162年(応保2年)の生まれで、式子内親王は1149年(久安5年)の生まれとされるから、13歳も内親王のほうが年上だが、彼女は10歳のときに吉凶を占う卜定(ぼくじょう)により賀茂斎院に任ぜられ、11年間を神に仕えてすごし、その後に出家し仏門に入った。前斎院として生涯独身でいなければならない身分だった。
一方、定家は子どものころから内親王と親しく、歌を通して2人はひかれ合い、密かな恋愛関係にあったといわれている。
立場上、恋を叶えることも、自分の思いを人に伝えることもできなかった内親王と、定家。やがて内親王は1201年(建仁元年)、50歳をすぎたばかりのころに亡くなってしまう。
式子内親王が詠んだ歌が残っている。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
私の命よ、絶えるのならば絶えてしまいなさい。このまま長く生きていれば、耐え忍ぶ力が弱って(心に秘めた恋が見つかって)しまいそうだから。
まるで定家との秘めた恋を歌っているようだ。
式子内親王が亡くなり、やがて定家もこの世を去り、式子内親王の墓にどこから伸びてきたのか、真拆葛がまとわりつくようになった。人はそれを見て「ああ、定家の想いが葛となったのでは」とウワサし、いつしか定家葛と呼ばれるようになったという。
こうしたエピソードをもとにしてつくられたのが謡曲「定家」で、応仁の乱のころの1470年ごろにつくられたと伝えられている。