金曜日朝の善福寺公園は快晴。雨上がりですがすがしい。
ムラサキシキブが咲き始めた。
実も紫色だが、花も紫だ。
きのうの雨の余韻か、水滴がまとわりつくように残っている。
水はこうやって草木を潤していくのか。
まとわりつくといえば、高いところで咲くので気がつくのが遅かったが、いつの間にやらテイカカズラ(定家葛)が咲き出していて、太い木の幹にまとわりつくように茎を伸ばし、たくさんの花を咲かせている。
定家葛(テイカカズラ)は、謡曲「定家」に始まる名前、と日本国語大辞典にある。
謡曲「定家」の成立は1470年ごろだから、室町時代の応仁の乱のころ以降から使われだした名前ということになる。
それ以前は「真拆葛(あるいは柾葛、マサキノカズラ)」と呼ばれ、早くも古事記に登場している。
古事記によれば、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天岩戸に籠もり世界が暗闇になったとき、天宇受売命(あめのうずめのみこと)は天香具山の日陰蔓(ひかげのかずら)を襷(たすき)にかけ、天の真拆葛を髪に纏い、天香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天岩戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出し裳の紐を陰部まで押し下げ歌舞をし、神々の笑いを誘ったことにより、天照大神の心を動かし、岩戸開きにいたった、という。
古事記の原文は漢文で書かれ、「為鬘天之真拆而」つまり「天の真拆を鬘(かづら)として」となっている。
古来、日本独自というより中国・朝鮮を経て伝わったと思うが、ツル草を頭に巻く風習があり、またツル草だけでなく花や葉、珠などを飾ることもあって、これを「鬘(かづら)」と称していたという。
天宇受売命は天岩戸の前での神がかりを行うためにツル草の真拆葛を頭にまとったが、これが今日いうところの「かもじ」「かつら」の原型といわれている。
「かつら」の語源も、ツル草の「葛(かずら)」が転じて「かつら」となったという。
このように、もともと「真拆葛(柾葛)」と呼ばれていたものが「定家葛」なったのには、平安末期から鎌倉初期の公家で歌人の藤原定家と後白河天皇の第3皇女、式子内親王にまつわる伝説が由来となっている。
定家は1162年(応保2年)の生まれで、式子内親王は1149年(久安5年)の生まれとされるから、13歳も内親王のほうが年上だが、彼女は10歳のときに吉凶を占う卜定(ぼくじょう)により賀茂斎院に任ぜられ、11年間を神に仕えてすごし、その後に出家し仏門に入った。前斎院として生涯独身でいなければならない身分だったという。
定家は子どものころから内親王と親しく、歌を通して2人はひかれ合い、密かな恋愛関係にあったといわれている。立場上、恋を叶えることも、自分の思いを人に伝えることもできなかった内親王と、定家。やがて内親王は1201年(建仁元年)、50歳をすぎたばかりのころに亡くなる。このとき定家はまだ40前。その悲しみはいかばかりだっただろうか。
式子内親王が残した有名な歌がある。
玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることのよわりもぞする
私の命よ、絶えるのならば絶えてしまいなさい。このまま長く生きていれば、耐え忍ぶ力が弱って(心に秘めた恋が見つかって)しまいそうだから。
まるで定家との秘めた恋を歌っているようだ。
式子内親王が亡くなり、やがて定家もこの世を去り、式子内親王の墓にどこから伸びてきたのか、真拆葛がまとわりつくようになった。人はそれを見て「ああ、定家の想いが葛となったのでは」とウワサし、いつしか定家葛と呼ばれるようになったようだ。
こうしたエピソードをもとにしてつくられたのが謡曲「定家」だ。
式子内親王を愛した定家が、死後も彼女を忘れられず、ついには葛となって彼女の墓にからみつく、という話だが、たしかに定家葛はキョウチクトウ科のツル性植物で、茎から気根を出し、ほかのものに巻きついてよじ登っていく強靱さがある。
そこで謡曲「定家」では、葛となった定家の執念が内親王の墓にまとわりついて、「互いの苦しみ離れやらず」と表現されていて、何だか怖そうな話。
実際、怖い話で、内親王の霊があらわれて、葛による束縛の苦しみから救ってほしいと旅の僧に懇願すると、僧は草木の成仏を唱える。すると経の力により葛の戒めは緩み、内親王の霊はひとときの解放を得て感謝する。ところが、内親王の霊が再び墓の中に戻っていくと、葛は再び伸びてきて、墓は葛に埋もれてしまうのだった。
だが、定家葛そのものは、毎年初夏の今ごろになると白くて可憐で美しい花を咲かせる。