善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

狂言「餅酒」「泣尼」「牛盗人」の含蓄

千駄ヶ谷国立能楽堂で開催された「1月狂言の会」に行く。

演目と主な出演者は、「餅酒(もちさけ)」松田髙義(和泉流)、「泣尼(なきあま)」茂山七五三(大蔵流)、「牛盗人(うしぬすびと)」野村万作和泉流)。

 

狂言なんて何十年ぶりのこと。能・狂言いずれにも興味はあるけれど、能を見ているとどうしても眠ってしまう。狂言だけの会があるというので出かけていく。

JR千駄ヶ谷駅から5分ほど。住宅街の中にある。

開演前の舞台。それぞれの座席に字幕表示があるので助かる。f:id:macchi105:20210123103150j:plain

中庭がライトアップされていた。武蔵野をイメージしているという。f:id:macchi105:20210123103216j:plain

始まるころにはほぼ満席。男性が多いかと思ったが、半分ぐらい、いやそれ以上が女性だった。

午後6時半開演で8時までの1時間半、どの演目もおもしろく、含蓄があって学ぶことが多かった。

 

最初の演目は正月にふさわしく、「餅酒」。

複数の百姓がそれぞれ貢進物を持って登場し、途中で出会って一緒に都へ上り、領主に貢納した上、何事かをして見せてから帰途につく。こういう筋立てを持った狂言を「百姓狂言」といって、新春に相応しい祝言性を持った、めでたい脇狂言となっているという。

 

加賀のお百姓が、大雪のため先延ばしにしていた荘園の領主への年貢の菊酒を納めるため上京する途中、同じく去年の年貢の鏡餅を納めに行く越前のお百姓と道連れになる。

2人は領主の館に着いてそれぞれの年貢を納めたのだが、館では近く歌会があるというので、領主からの命令として、年貢が遅れた罰として酒と餅を折り込んだ歌を詠むよう奏者(そうじゃ、取次役)から伝えられる。

加賀は「呑み伏せる酔ひのまぎれに年一つ、打越し酒の二年酔ひかな」

越前は「年の内に餅はつきけり一年を、去年(こぞ)とや食はん今年とや食はん」

と詠み、「見事に詠んだ」というので褒美としてすべての公事(税)を免除される。2人は手を取り合って大喜びすると、「声が大きい」と叱られ、今度は大きな歌を詠めと命じられる。

そこで加賀は「盃は空と土との間(あい)の物、富士をつきずほうにこそ呑め」

越前は「大空に憚(はばか)るほどの餅もがな、生けろう一期(いちご)かぶり食らわん」

と詠んで再びお褒めの言葉をもらい、最後に2人で連れ舞いを舞ってめでたしめでたし。

 

たしかに正月らしくめでたい終わり方だったが、2人のお百姓が舞い踊った曲は、自分たちがつくった酒や餅を賛美するものであり、生産者の喜びを歌っていた。

 

実際、能・狂言研究者の橋本朝生氏の論文(「百姓狂言の形成」)などを読むと、この狂言祝言の裏に農民たちの抵抗が秘められている、との見方もあるらしい。

 

歌を詠んで年貢などの税を免除されるという話は、江戸時代に成立した「一休ばなし」という仮名草子にもある。

頓智で有名な一休和尚にまつわる説話集で、一休さんが奈良の薪(たきぎ)というところに住んでいたころ、この辺の村々は近衛家の領地だったが、そこの家老で左近というのが横暴な男で、百姓たちから不当な年貢をせびり取っていた。がまんできなくなった百姓たちが近衛家に訴え出ようとしたとき、一休さんは「この歌を近衛殿に見せなさい」と書いて渡した。何て書いてあったかというと「世の中は月にむら雲(群がった雲)花(桜)に風 近衛殿には左近なりけり」。

意味は、月にかかる雲とか花を散らす風というように、世の中の素晴らしいものには邪魔なものがつきものです。近衛殿にとってそれは家老の左近なのでありましょう。

百姓たちから差し出されたこの歌を読んで近衛の殿さまはいたく感じ入り、年貢の取り立てを免除した、という話である。

 

しかし、一休さんが書いたというこの歌(あるいは話そのものも含めて)には原典があり、それは室町時代後期に編まれたとされ、現存する狂言台本の中で最古本といわれる「天正狂言本」に載っている「近衛殿の申状」という狂言だ。

 

代官の左衛門尉による過酷な年貢にあえぐ百姓たちが目安状を持って領主の近衛家に訴え出る。目安状には一首の和歌が添えられていて、こう書かれてある。

「世の中は月にむら雲花に風木のへ殿にはさいもんのでう」(世の中には月にむら雲、花には風といわれるが、近衛殿にとってむら雲や風にあたるのは代官の左衛門尉でしょう)

これを読んで怒った近衛の殿さまは太刀を抜いて左衛門尉を追い込み、代官・左衛門尉の更迭を暗示してめでたく終わる、という話だ。

「一休ばなし」では頓智で領主を唸らせたのは百姓ではなく一休さんだったが、「近衛殿の申状」では百姓たちが直接、見事な和歌を詠んで領主を唸らせたのだった。つまり、ここで注目すべきは農民の力が直接、領主である権力者におよんでいるということだ。

 

しかも、「近衛殿の申状」のような話は決して架空の話ではなく、13世紀後期から15世紀なかばにかけて実際にあった出来事をモチーフにしている。

このころ、農民が領主に諸要求を提出する動きはしばしばみられており、農民たちによる上申書は「百姓申状」と呼ばれている。そこでの農民たちの要求には、年貢減免、代官の非法停止などの領主支配に対するものから、駐留武士の違乱停止、用水および山野争論といった村落間秩序に関するものなどもあったという。

さらに研究者らが注目するのは、「百姓申状」の中で農民たちが自分たちのことを「お百姓」と呼んでいることだという。

これは何を意味するのか、自分たちはただの「百姓」ではなく「お百姓」である、自分たちは決して権力に屈するだけの弱い存在なんかではない、ということを示しているのではないか。

きのうの「餅酒」でも、自分たちのことをしきりに「お百姓」と呼んでいた。

都にまで上って年貢を納めようとする者は当然、下っぱの人間ではなく、荘園内の有力名主だっただろうから、農民たちの強い自負を「お百姓」の言葉に感じるのだ。

 

続いて「泣尼」。

村に住む男が、隣の在所の僧に故人の追善のため説法を行ってくれないかと頼むと、僧はお布施(謝礼)をもらいたさに快く引き受ける。しかし、この僧はまだ説法をしたことがなかったため自信がない。そこで、幼いころに聞いた中国の親孝行の話をすることにし、さらには説法に感動して泣いてくれる者が必要と考えて、泣尼と異名をとる涙もろい尼に布施を半分やると約束して同行させする。

ところが、いざ説法を始めると、僧の思惑とは裏腹に尼は泣くどころか居眠りを始め、終いにはゴロリと横になってしまい・・・。

空疎な説法や金に執着する宗教者を痛烈に皮肉った作品。

 

基本的に狂言は素顔で演じられるが、ここでは「尼」という狂言面を使用している。

僧が説法をしながら、居眠りをする尼をなんとか起こそうと四苦八苦するところがおかしい。

 

葬式とか説法の場で泣くのを仕事にする尼というのは実際にいたんだそうで、室町時代の「玉塵抄」(1563年)という書物に次のくだりがある。

「ここらになきあまへをい比丘尼と云やうなことぞ」

「なきあま」は「泣尼」で、「へをい比丘尼」とは「屁負比丘尼(へおいびくに)」のこと。良家の妻女や娘などにつき添い、放屁などの過失の責めを代わりに負った比丘尼のことをいったらしい。泣尼にしても屁負比丘尼にしても、いずれも立派に職業として成り立っていたのだろう。

むろん、後世には職業となったにしても、こうした行為はもともと宗教的意味を持っていたに違いない。

葬儀などの場で号泣する「泣き女」の風習は神話の時代からあり、イザナミを亡くしたイザナギの涙から生まれた「泣沢女神(なきさわめのかみ)」は、泣き女の役割を神格化させたものといわれている。

 

最後は「牛盗人」。

法皇の御車の牛が盗まれ、「自分の父が盗んだ」と一人の少年が訴え出る。父を捕えた牛奉行に息子はある褒美を求める、という話。

牛盗人を野村万作、牛奉行を息子の萬斎が演じるが、さすが万作が円熟の味。

 

立派なヒゲの牛奉行があらわれ、うやうやしく命ずる。

法皇さまの牛を盗んだものがいるが、まだ捕まっていない。通報した者には願いを何でも叶えてつかわすぞ」

そこへ一人の童子がやってきて訴える。

「私は犯人を知っています。通報しにまいりました」

そこで捕らえてきた男を童子と対決させると、何と童子の父親だった。

驚いた父親はこれまでの子育ての苦労を語り、「父親を訴えるとは何と恩知らずなやつだ。牛を盗んだのは自分の父の追善のためで、牛を売った代金で追善法要を行うことができたのに・・・」と泣き泣きかきくどくが、奉行は冷然と言い放つ。

「おまえは死罪を犯したのだから、処刑は免れぬ」

すると童子がこう言い出す。

「盗人は捕まりました。どうぞわたしに褒美をください」

「おおそうじゃった。何なりと申せ」と奉行が応じると、童子は「それでは父の命を助けてください」

「何と」といきり立つ奉行。しかし、童子の次の言葉にギャフンとなる。

「高札の勅(天皇の命令)には、通報した者には願いを何でも叶えてやると書いてあるではありませんか。さては勅にも偽りがあるのですか。父の命を助けてくださらないなら、私も一緒に死ぬばかりでございます」

童子が奉行に褒美として求めたのは父の命を助けることだった。

童子のこの言葉を聞いた父は息子の心を知って大声で泣き出し、「お前は神か仏か」と息子を讃える。同様にして奉行ももらい泣きして罪を許す。縄を解かれた牛泥棒とその子は、しっかり抱き合うと大喜びで帰っていくのだった。

 

狂言の中には昔の仏教説話をもとにつくられているものも多いのだろう。これもその1つではないだろうか。

捕らえられた父親が、盗みを正当化する理由として語ったのも仏教説話にあるもので、釈迦の弟子が牛を盗んで親の追善をした故事だった。

「牛盗人」という言葉自体が仏教では意味のある言葉としてつかわれていて、北魏(386‐534年)の時代の経典である「雑宝蔵経」の中にある「離越(りおつ)尊者の因縁」では、牛盗人は「無実の罪人」とされている。

 

こんな話だ。

昔、悟りを開いた聖者で離越尊者という人がいて、山中で草などを集めてそれを煮て衣を染めていると、牛盗人と間違われて国王のもとに突き出された。尊者はいいわけをすることもなく黙って牛盗人として牢獄に入れられた。

罪人として牢獄の中で苦役に服すること12年。尊者には弟子が500人もいて、急に師匠がいなくなったというので探して、牢獄に入れられていることがわかり、国王に訴えると、「みな卑しい罪人ばかりで尊者などはいない」という返事。「それなら囚人を全員釈放してください。その中に尊者がいます」とさらに訴えると、王はすべての罪人を許し出獄させた。すると、そのとき初めて尊者は尊い姿となって神力をみせ、王は自分の不明を恥じた。

それにしてもなぜ尊者は無実の罪で12年間も罪人生活をしていたのか。弟子たちが問うと尊者は、自分は前世において飼っていた牛がいなくなり「お前が盗んだな」と罪のない修行者を問い詰めたことがある。その報いがきたとわかったので、罪なき罪に服して12年間苦しんだのだ、と述べた。

この話から、牛盗人というのは讒訴されて悪い評判をきせられる意味として使われるようになったという。

親鸞の言葉に「たとえ牛盗人であるとの悪名がたっても、善人ぶったり、立派な仏法者ぶったりしてはならない」という意味のものがある。これも「雑宝蔵経」の中の因縁話にもとづいているのかもしれない。

「雑宝蔵経」にはさまざまな因縁物語やたとえ話が収められていて、仏教説話集の「日本霊異記」や「今昔物語」などにも影響を与えているというから、そこから派生した話が狂言になったのかもしれない。

 

童子の役をしたのは松原悠羽太(ゆうた)と出演者紹介にあった。2009年生まれというから今年12歳。野村万作に師事しているそうで先々が楽しみだ。