きのうの14日は近くの井草八幡宮(東京都杉並区善福寺)で流鏑馬(やぶさめ)があった。5年に1度行われていて、前回は雨で中止になったから、実に10年ぶり。いつもは平日なので行ったことはなかったが、今年は日曜日なので出かけていく。
午後3時開始というので1時間ほど前に行くと、すでにスゴイ人出。
まずは神前での奉幤行事。
3人の射手に御祓いを受けた弓、矢が手渡され、御神酒が振る舞われて、イザ出陣。
「流鏑馬神事」の幟を先頭に馬場へと向かう。
流鏑馬射手のいでたちがカッコイイ。立烏帽子の上に綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂に射籠手を着け、行騰(むかばき)を履いて矢を入れた箙(えびら)を背負う。この服装は鎌倉時代の武士の狩装束だとか。
まずは神前での奉幤行事。
3人の射手に御祓いを受けた弓、矢が手渡され、御神酒が振る舞われて、イザ出陣。
「流鏑馬神事」の幟を先頭に馬場へと向かう。
流鏑馬射手のいでたちがカッコイイ。立烏帽子の上に綾藺笠(あやいがさ)を被り、鎧直垂に射籠手を着け、行騰(むかばき)を履いて矢を入れた箙(えびら)を背負う。この服装は鎌倉時代の武士の狩装束だとか。
射手らは八幡宮北(裏)の大灯籠のあたりに待ち受けた馬にまたがると、青梅街道を大鳥居に向かう。
行列の先頭では氏子さんたちが大太鼓をド~ン、ド~ンと打ち鳴らしながら進んでいく。
やがて行列は大鳥居のある東参道に到着。
この参道は直線距離が約200mあり、ここが流鏑馬神事の馬場となる。都内でも馬場を持つ神社は珍しいという。
行列の先頭では氏子さんたちが大太鼓をド~ン、ド~ンと打ち鳴らしながら進んでいく。
やがて行列は大鳥居のある東参道に到着。
この参道は直線距離が約200mあり、ここが流鏑馬神事の馬場となる。都内でも馬場を持つ神社は珍しいという。
何でも流鏑馬は奈良時代から行われていて、神事としての流鏑馬は第29代欽明天皇の時代に五穀豊穣を願って宇佐神宮に奉納したのが最初とされているとか。流鏑馬の名はこのときの「矢馳馬(やはせめ)」がなまったものだという。
もともと流鏑馬の術は清和源氏の相伝だったらしいが、やがて小笠原流と甲斐の武田流の2家に分かれ、現在に至っている。
鎌倉時代に鶴岡八幡宮で源頼朝が奉納した流鏑馬は小笠原、武田の両方が参加していて、そのためかいまだに鶴岡八幡宮の流鏑馬は秋が小笠原流、春が武田流と両方の流派を使っているという。
鎌倉時代に鶴岡八幡宮で源頼朝が奉納した流鏑馬は小笠原、武田の両方が参加していて、そのためかいまだに鶴岡八幡宮の流鏑馬は秋が小笠原流、春が武田流と両方の流派を使っているという。
流鏑馬には作法があり、馬場の両端を馬場元、馬場末といって、各所役が所定の位置につくと馬場元役が軍扇を掲げる。すると馬場末役は同様に軍扇をかざしてこれに応える。これが騎射開始の合図。
射手は馬場の3カ所に立てられた1尺8寸角の板的(檜の板とかいっていた)に疾走する馬上から矢を放つ。
3カ所の的には、それぞれの的役・矢執り・采揚げ・各射手の的持ちが1人ずつ位置についている。見事当たれば観客からヤンヤの喝采。1の的に的中した瞬間。
馬を走らせながら何やら叫んでいたが、これを「矢声(やごう)」といって、「インヨー(陰陽)」と叫んでいたのだとか。矢声は矢を番える動作の間に発していた。
三つの的全部に的中すると、ご褒美に禄と呼ばれる白布1反が下賜され、肩にかけて意気揚々と引き上げていった。
3カ所の的には、それぞれの的役・矢執り・采揚げ・各射手の的持ちが1人ずつ位置についている。見事当たれば観客からヤンヤの喝采。1の的に的中した瞬間。
馬を走らせながら何やら叫んでいたが、これを「矢声(やごう)」といって、「インヨー(陰陽)」と叫んでいたのだとか。矢声は矢を番える動作の間に発していた。
三つの的全部に的中すると、ご褒美に禄と呼ばれる白布1反が下賜され、肩にかけて意気揚々と引き上げていった。