善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

岩波新書 カラー版 北斎

図書館の新刊コーナーをのぞくと、ときどきおもしろそうな本が並ぶ。先日みつけたのが岩波新書の『カラー版 北斎』(大久保純一著)と『江戸時代の医学 名医たちの三〇〇年』(青木歳幸著、吉川弘文館)。借りて読む。

『カラー版 北斎』は図版が美しくてまるで美術館に行ってる気分。
筆者の大久保氏は江戸絵画史が専門で国立歴史民俗博物館研究部教授。

「画狂人」と自称した北斎は自由奔放に生きたイメージがあるが、たしかにそういう面もあっただろうが、若いころはいろいろ苦労もし、勉強もしたようだ。

北斎をはじめとする江戸の浮世絵はヨーロッパの近代絵画(だけでなく音楽などにも)大きな影響を与えたことが知られているが、北斎自身もヨーロッパからの影響を受けていることがよくわかった。

たとえば北斎はオランダ銅版画を模した作品を描いていて、タイトルも「阿欄陀画鏡(おらんだえかがみ)江戸八景」。タイトルにある通り、洋風を売り物にした作品といえるだろう。
ほかにも北斎は油絵の画風を模したかのような作品も残している。
「くだんうしがふち(九段牛ケ淵)」という作品はたしかに油絵ふう。石垣模様の縁取りは西洋画の額縁を思わせるし、平仮名の画題や「ほくさゐゑかく(北斎描く)」の落款をローマ字ふうに横に寝かせて書いていて、ことさら西洋絵画に似せた描き方をしている。

浮世絵などの影響を受けてジャポニズムがヨーロッパ特にフランスを席巻したのは1800年代も後半に入ってからだが、「くだんうしがふち」は1804年、「阿欄陀画鏡 江戸八景」は1810年ごろの作品だから、ジャポニズムよりずっと前に日本の“西洋かぶれ”があったのだ。そうやって文化とは互いに影響しあって発展していくということなのだろう。

ベロ藍という舶来の顔料を積極的に取り入れたのも北斎だった。
化学合成された酸化コバルトがベロ藍。「ベルリン(ベロリン)からやってきた藍」というのでベロ藍。
本書では詳しく触れられていないが、昨年の正月に東京国立博物館北斎の「冨嶽三十六景」を見たとき、北斎はただベロ藍をそのまま用いるのではなく、これに日本の植物由来の天然の藍を加えて「ジャパン・ブルー」をつくり出したといわれている。ここに北斎の独創性がある。

北斎幾何学の勉強をしていたことも本書で知った。
文化年間の中ごろから(北斎50歳前後ごろ)、北斎は相次いで絵手本(絵画学習のための教習本のことで、門人はもちろん大名から庶民までに好評で、当時のベストセラーになったとか。文化年間といえば江戸文化の爛熟期。当時、プロ・アマを問わず絵を描くことが一種のブームになっていたのだろう)を刊行するが、その中で定規やコンパスを用いて絵を描く方法を説いている。

有名な「北斎漫画」も、「漫画」というと今日のコミックを連想するが、それは誤解で、絵の描き方を教える絵手本の1つが「北斎漫画」なのだという。

さらに北斎のスゴイところは90歳の死の直前まで絵を描き続けたこと。
天保5年(1834)の75歳のとき、北斎は次のようなことをいっている。
「6歳のころより物の形を写すの癖(へき)があって、以後、いろんな絵を描いてきたが、70歳までの作品は取るに足らないものばかりだった。73歳にしてようやく鳥獣や草木の根源に触れることができるようになった。80歳をすぎるようになれば画技はますます伸長し、90歳ぐらいになれば奧義を究め、100歳には満足いく作品が描けるようになるだろう。しかし、十分に納得いく作品ができるのは100有十歳になるまでかかるのではないか」
大変な鼻息である。

90歳で亡くなるとき、「あと5年の命があれば、真正の画工になれたのに・・・」といってこと切れたという。

ところで、気になってしょうがないのが、娘のお栄のことである。
本書でも触れられているが、お栄は嫁に行くが離縁されたあと北斎と一緒に暮らし、制作助手を務めていたという。「葛飾応為」という号をもつお栄を北斎は「美人画にかけては応為にはかなわない」とまでいわしめるまでの画才があったという。それで、晩年の北斎の肉筆美人画北斎のお栄が代作したのではないか、といわれているほどだ。
しかし、「お栄は父の死を見取り、のちに親戚や門人の家を転々とし、やがて行方知れずとなった」と本書は書く。

今日に残るお栄の絵は極めて少ない。ボストン美術館太田記念美術館、それに東博に所蔵作品があるが、一度「葛飾応為展」をやってほしいものだ。