8月31日の「全国花火競技大会(大曲の花火)」を観るため秋田へ。
前日の30日、新幹線で秋田駅に午後到着。夕方まで時間があったので秋田大学国際資源学部の附属施設である「鉱業博物館」へ。
秋田県は鉱産資源に恵まれ,古くから鉱山開発が進められてきた地域。県内各地には黒鉱鉱床や鉱脈鉱床などの金属鉱床が多数存在し、日本海沿岸部は国内有数の油田地帯なんだそうだ。
そもそも秋田大学自身、1910年に設立された鉱山技術者養成のための秋田鉱山専門学校と師範学校が一緒になって開校したもので、開校時からあるのが鉱山学部だ。
館内はとにかく石、石、石。
中でも青い色に興味があるので、青い色を発光する鉱石を探す。
鉱石は絵画の顔料としても使われていて、藍銅鉱(アズライト)は「群青」と呼ばれる青い色の顔料に用いられる。
日本でも古くから使われていて、尾形光琳の「燕子花図(かきつばたず)」では燕子花の花の色に使われているという。
しかし、青い色といえば何といってもラピスラズリ。
ラピスラズリの主成分は、テクト珪酸塩・方ソーダ石グループの青金石(ラズライト:Lazurite)だという。この原石はアフガニスタン産。
古くはツカンカーメン王のマスクに用いられているし、絵画の材料としてはフェルメールの「青いターバンの少女」が有名だ。
ラピスラズリは稀少だったため、広く青色の顔料として使われたのが藍銅鉱だった。
一方、鉱石から青の顔料を取り出すのは大変だと、化学合成の顔料づくりが取り組まれ、18世紀初頭のベルリンに登場したのがプルシアン・ブルーだ。
鉄とシアンの化合物(シアン化鉄)で、暗く濃いと同時に強烈で鮮烈な青色をしている。
日本に初めてプルシアン・ブルーが輸入されたのは1747(延享4)年。初めて日本でプルシアン・ブルーを絵画に用いたのは伊藤若冲で、1766年のこと。しかし、若冲がプルシアン・ブルーを使ったのは1回のみで、その後、プルシアン・ブルーを使ったのは1770年代の平賀源内と、小田野直武ら秋田蘭画の画家たちだった。
のちに浮世絵に多数使用されることになるが、それは19世紀に入ってからのこと。北斎がプルシアン・ブルー(俗にベロ藍)を用いて「冨嶽三十六景」を制作したのは1823年~35年ごろだ。
館内では特別展「秋田に残る鉱山絵図・絵巻の世界」が開催中だった。
秋田大学が所蔵する鉱山絵図・絵巻のコレクションと、県内の資料館および個人が所蔵する鉱山絵図の複製を展示している。
秋田では院内銀山、阿仁鉱山、荒川鉱山の3つの鉱山が有名。
夜は川反(かわばた)にある「二代目秋田杉 政」でイッパイ。
川の端に店が並んでいる秋田一の繁華街だが、なぜ「川反」と読むか?
江戸時代には普通に「川端」といっていたようだが、当時は武士の家が並んでいたという。やがて時代が進むとともに川端には町人の街となり、武士は川の東側に移り住んでいった。このため川の西岸沿いにある川端は武士から見て川の反対側に位置するようになったので「川反」の字が当てられるようになったんだとか。
それはともかく、この店の酒はほとんどが秋田の酒で、40種食いぐらいあるそうだ。
今まで飲んでない銘柄を中心に注文。
料理は、お通しのあと、刺身の盛り合わせ。
セリ。
秋田といえば岩牡蠣。
ダケキミ。青森県産の糖度18度以上のとても甘いブランドとうもろこしのことで、これを焼いてもらう。
この店の名物だという生ラム。
生のラムがそのまま出てくるのかと思ったら、ニンニク風味に焼いてくれた。これがウマイ!
かくて秋田の1日目は終わり、明日はいよいよ大曲の花火本番。(次回につづく)