善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

秋田サクラの旅②横手・増田と道祖神と小田野直武

秋田の旅3日目の28日は秋田市から横手をめざす。
秋田県には2カ所の重要伝統的建造物群保存地区(略称・重伝建)があり、1つは角館の武家屋敷であり、もう1つは横手市増田地区にある商家の家並みだ。
重伝建とは、日本の文化財保護法に規定する文化財種別のひとつで、市町村が条例などにより決定した伝統的建造物群保存地区のうち、文化財保護法第144条の規定にもとづいて特に価値が高いものとして国(文部科学大臣)が選定したものを指す。

増田地区にはサクラの名所、真人公園があるので、まずそこへ行く。
「真人」と書いて「マト」と読む。平安時代の武将、清原真人武則に由来するんだとか。公園のいたるところにサクラが咲いていて実に見事だった。
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それもそのはず、この公園は日本のさくら百選に選ばれている。
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池にたらいがいくつも並んでいた。ハテ?とのぼりを設置していた人に聞くと、ここはたらいこぎ競争の発祥地なんだとか。
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増田町は昔から酒造りが盛んで、明治から大正時代にかけ5軒の酒屋があり、タガがゆるまないように池に浮かべていた酒造り用のたらいに若勢衆が遊び半分に乗って速さを競ったのがたらいこぎ競争の始まりといわれているそうだ。
あす、つまり29日にたらいこぎ競争があるそうで、その準備の最中だった。

さていよいよ増田地区の重伝建へ。
通りは何ともない、ただの古びた商店街。実はここにこの地区の重伝建の“秘密”がある。
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一見するとただの古びた商家の家の中に、豪華な内蔵が隠れているのがここの大きな特徴なのだ。家の中にもうひとつの“家”があり、それが内蔵だ。
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蔵の入口。
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ピカピカに磨かれた蔵の中。2階建てで、2階には大事な衣類などの物を置いたそうだが、1階は住人が寝起きする。土で塗り固められた蔵の中なら厳冬期でも温かいだろう。冬は雪に埋もれる雪国ならではの発想だ。
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何かの行事で使ったのだろう。張り子のトラがかわいかった。
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柱と柱の間隔がやけに狭い。間の土壁はツルツルに磨かれていた。泥だんごをつくるのと同じ要領で職人さんが手で磨いたんだとか。
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内蔵のある家々は1人200円で内部を観覧でき、ご主人や奥さんによる解説もついているのだが、それが何ともおもしろかった。
自分の家のことを自慢しながら解説してくれるのだが、どこもナルホドと感心することばかりで、少しも鼻につくことはない。
奥さんが家の半分について解説すれば、奥の方はご主人が担当するというように分担している家もあった。
増田のジューデンケンに行ったら、ぜひとも200円払って解説を聞くべし。

昼食はジューデンケンの通りに面した「旬菜みそ茶屋くらを」で食べる。
地元の麹屋さんである羽場こうじ店が営み、増田の各家々で受け継がれている麹をふんだんに使った料理が食べられる店。国指定有形文化財に登録された「旧勇駒酒造」の建物を利用している。

ジューデンケンのあとは市内の各所にある“藁人形”を見て回る。
地元では「鹿島さま」と呼ばれ、いわばワラの人形でつくった道祖神。道路の分かれ道や村や町の境界にいる神様のことのようだ。
その大きいこと。見上げるほどで、顔は怖そうだが、何となくユーモラス。
横手市岩崎の八幡神社の境内にある「鹿島さま」。
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大森町末野の川べりにあった「鹿島さま」。
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最後に訪ねたのは横手市にある県立近代美術館。
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小田野直武などの秋田蘭画をはじめ秋田県にゆかりのある作家の作品を収集していて、この日はリニューアル記念で小田野直武の「東叡山不忍池」(国の重要文化財)が展示されているというので行く。
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1770年代の作品。小野田直武(1749~1780)は幼少より絵を好み、狩野派を学んだというが、鉱山経営の指導のために秋田にやってきた平賀源内にその才能を認められ、それが秋田蘭画誕生のきっかけとなる。
秋田蘭画とは江戸時代における絵画のジャンルの1つで、西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画。
直武は源内のもとで絵を修行するため江戸に赴き、「解体新書」の挿画を描いたことでも知られる。
「東叡山不忍池図」は遠近法・陰影法といった西洋の絵画技法を使い描かれた日本初の洋風絵画として有名だ。
青の色は輸入顔料のプルシアンブルーが使われている。
プルシアンブルーは「ベロ藍」ともいわれる。プルシアンブルーが誕生したのはプロイセン(現在のドイツ)の首都ベルリンであり、それでベルリンの藍がなまってベロ藍と呼ばれた。浮世絵の写楽や広重らがこの色にほれ込み、競って使ったことで知られているが、直武もすでにこのベロ藍を使っていたのだ。

ちなみに、その才を見込まれた直武は、数え31歳の若さでナゾの死をとげている。

それにしても充実した旅だった。
(おわり)