善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

NHKBS「空海 至宝と人生 曼陀羅の宇宙」

水曜日朝の善福寺公園は晴れ。きょうも朝から暑い。

きのうの夜はNHKBS「空海 至宝と人生」の3回シリーズの第3作「曼陀羅の宇宙」を観る。
番組の宣伝文句にいわく、
空海自らが「密教の教えは深く、文字では伝えられないので、絵図を用いて表現する」と語っているように、密教美術は造形の宝庫であり、多彩さと秀逸さは仏教美術の中でも群を抜いている。その頂点に立つのが「両界曼荼羅図」。日本には空海が初めてもたらしたといわれる。平安時代の色彩を鮮やかに残す曼荼羅に描かれた巨大な宇宙空間から数センチの微細な仏の顔まで、高画質映像で仔細にとらえ、そこに込められたメッセージを解き明かしていく──。

この番組を見て、空海が山岳を修行の場とした理由の1つがわかった気がした。

空海は、最澄とともに山岳仏教の開祖とされる。山岳仏教とは、奈良仏教が政治との結びつきを強め、世俗化を強めたことに反発した形で、あえて俗人の入り込めない山岳に修行の場を求めた修験者の仏教という。

しかし、空海が山に分け入って行ったのは、単に修行のためとはいえないのではないかと思った。だって日本にはもともと、古来より山岳信仰が根付いていた。空海はそうした山岳信仰との融合をめざしたのかもしれないが、もう1つは、山に豊富にある鉱物を手に入れるためだったのではないか。

両界曼荼羅とは、密教の中心となる仏である大日如来の説く真理や悟りの境地を、視覚的に表現したものだ。大日如来を中心とした数々の「仏」を一定の秩序にしたがって配置し、「胎蔵曼荼羅」「金剛界曼荼羅」の2つの曼荼羅を合わせて「両界曼荼羅」と称する。そういえばわが家にも、京都のお寺で購入した「胎蔵曼荼羅」を額に入れて飾ってある。

胎蔵曼荼羅は「大日経」、金剛界曼荼羅は「金剛頂経」という密教経典をもとに描かれている。両者は同じ大日如来を主尊としながらも系統の違う経典であり、違う時期にインドの別々の地方で別個に成立し、中国へも別々に伝わった。これら2つの経の教えを統合し、両界曼荼羅という形にまとめたのは空海の師である唐僧・恵果といわれる。

恵果は密教の奥義は言葉では伝えることがかなわぬとして、宮廷絵師李真に命じて両界曼荼羅を描かせ、空海に与えた。空海は唐での留学を終えて806年に帰国した際、それらの曼荼羅を持ち帰っている。

曼陀羅は次々と模写され、全国に普及していった。曼陀羅の普及は仏教の普及とイコールでつながっているからだ。わが家に飾ってある曼陀羅を見ると、赤い色が鮮やかで、ほかの色も含め極彩色だ。曼陀羅をたくさん模写させ、普及させるには、赤い色をはじめたくさんの絵の具が必須だったはずだ。
今でこそ絵の具は文房具屋へ行けば簡単に手に入るが、当時はそうはいかない。当時、絵の具の材料となるのは鉱物とか植物である。特に鉱物は多くは山に存在した。

空海は奈良の高野山周辺で修行し、今は真言密教の聖地となっているが、その一帯は水銀の産地であり、丹砂(辰砂)の宝庫でもあったという。今も、高野山奥の院は辰砂の鉱床の上に建っているといわれるが、辰砂とは化学名でいえば硫化水銀のことであり、赤色の顔料となる。

もともと辰砂は中国などで仙薬として珍重されていたから、医術にも用いられただろうが、曼陀羅のあの鮮やかな赤い色の元にもなっただろう。赤は血液の色であり、永遠の命につながる色であった。

空海は晩年、金と銀で曼陀羅を描いたという。どこかに金や銀が産出される山を見つけ、そこから金や銀を採取してきたことも考えられるが、辰砂は金を精錬するのに欠かせない鉱物だったという。高野山には金の鉱脈もあったかもしれない。

金とはもともと太陽の色、光の色であり、不老不死を実現する最高の色であり、金を原料につくった金丹、金液は最上級の薬であった。

いずれにしろ、曼陀羅とは密教の奥義を言葉でなく、色や形で教えるものであり、空海の山岳行脚はその色を手に入れるための旅だったのかもしれない。