インド最北端、天空のチベットと呼ばれるラダックの旅の4日目。
きょうは1日かけてラダック最大の僧院、ヘミス・ゴンパ(僧院)で行われるツェチュ祭を見学する。
「ツェチュ」というのは「月の10日」という意味で、チベット仏教の開祖パドマサンバヴァ(グル・リンポチェ)の誕生日であるチベット暦の5月10日を祝い、また、さまざまな事蹟がいずれも10日に起きたことを記念して行われる法要のこと。
特徴的なのが、この法要が「チャム」と呼ばれる仮面舞踊によって行われることだ。
ホテルの朝食はパンに卵焼きにスイカ。
海外を旅行すると、朝のスイカに癒される。
街で見かけた住宅工事の現場。
きれいな花が咲いていた。
車で近くまで行って、あとは歩き。ゴンパ(僧院)はだいたい山の上にあるから坂道をのぼっていかないといけない。
どんどん人が集まってくる。
道端で読経しながら何か売っている。
奥にあるヘミス・ゴンパに向かう人々。
祭の会場に向かう長い列。
もうすでにたくさんの人が集まっている。
崖に張りつくように建っているのは僧坊だろうか。
屋上に陣取って祭を見る。
10時すぎ、ほら貝の響きとともに祭が始まる。
ゴンパの若い僧か、ほっぺをつねりっこして遊んでいる。
まずは巨大タンカ(掛け軸に描かれた仏画)のご開帳。
祭といっても厳粛な宗教行事であり、そこで行われるチャム(仮面舞踊)とは密教で行う修法(加持祈祷の法)のことで、チャムによって魔を払い、咒師が魔を討つ行事をいう。
仮面をつけて仏や神の姿となりチャムを舞う演者たちはすべて修行を積んだ僧であり、踊りの所作は厳密に規定され、その1つ1つに象徴的な意味が込められている。したがってチャムは真剣な儀礼であるが、観客たちにとっては娯楽にもなっている。
13人の僧によって舞われる13黒帽の舞。
会場を清める意味を持っていて、白いマスクは悪霊を吸い込まないためで、コロナ対策ではない。
銅製の仮面の踊り手たちによる祝福の舞。
観客たちに祭の開始を告げ、邪気を払う。
午前中のメインイベント、パドマサンバヴァ八変化。
パドマサンバヴァは生涯に8つの変化した面相を持っていたといわれており、それを仮面の踊りで表現する。
この人がパドマサンバヴァ。
パドマサンバヴァが姿かたちを変えながら仏法の力により悪霊を倒していく。
ここまでで午前の部が終了。
持ってきたお弁当で昼食のあと、ヘミス・ゴンパの中を見て回る。
ちょうど午後の部の準備の最中で、若い僧が仮面をつけていた。
こんな暑い中で重そうな仮面をつけて舞うのだから、若い僧じゃないと大変そうた。
午後の部が始まり、守護尊の舞。
守護尊はいずれも忿怒の表情をしており、怒りの顔で悪を払い調伏して仏法に導いていく。
チティパティ(屍陀林王)の舞。
ガイコツの仮面で踊る。「墓場の主」という意味を持つこの仮面は、悪霊を退散させる重要な役割を担うとされている。
パドマサンバヴァの八変化のときもそうだったが、チティパティも盛んに白い粉をまいていて、あれは大麦の粉だという。
大麦はラダックの人々の主食だ。
そういえば6月から7月にかけては麦秋といって麦の収穫時期。ツェチュはこの時期に行われるから、日本の秋祭りと同じで、生きていく糧である麦の豊作を祝う祭でもあるのかもしれない。
守護尊の1つダーキニーの舞。
大地と空の英雄たち10人による勇士の舞。
終わったのは午後4時近かったが、昼の休憩を挟んで5時間ぐらいかかる長丁場。それでも観客たちは時間が経つのも忘れてみな熱心にチャムに見入っていた。
この日のチャムを見ていて思ったのが、どこかで見たことがあるナ、という既視感だった。
たしか毎年5月5日に奈良・薬師寺の恒例行事で行われる玄奘三蔵会での伎楽奉納は、この日見たのとそっくりの仮面をかぶっていた。
薬師寺の伎楽奉納でかぶる仮面は伎楽面といって、本物は正倉院や法隆寺などに保管されてある。伎楽面は7~8世紀ごろに日本で流行した伎楽という仮面舞踏劇に用いられたもので、日本最古の仮面といわれている。
実は日本の伎楽で用いられる仮面とはチベット由来で、仮面をつけて踊る仮面舞踏劇もその源流はチベット仏教のチャムなのではないだろうか?
東大寺の大仏開眼(752年)の際には大規模な伎楽が上演されたと伝えられている。しかし、伎楽は鎌倉時代には滅び、その実態は幻となってしまった。1980年(昭和55年)、東大寺大仏殿で約1000年の年月を経て復興され、現在、奈良の薬師寺で毎年の恒例行事として伎楽奉納が行われるようになったという。
日本の伎楽のルーツはどこにあるのか?というと、伎楽は呉楽(くれがく)ともいわれ、その起源はインドやチベットとされ、朝鮮半島・百済の味摩之(みまし)が612年(推古20年)に呉国から日本に伝えた、と日本書紀に記されるという。
学者の中には「伎楽も密教儀礼であり、インドから密教伝来に伴ってチベットに伝えられ、その後、変容しつつも、発展していった密教儀礼がチャムであったことを考えると、インドから(古密教系)仏教の伝播に伴って、百済を経て日本に伝来された伎楽も一種のチャムである」とする説もあるらしい。
そのチベットのチャムにしても、もともとは仏教徒に合うように変えられたチベット土着の仮面舞踊劇であり、その起源は、仏教伝来以前、人間に害悪を持つ悪魔に人身御供をして難を逃れようとした儀式の際の踊りではないか、との説があるという。
また、チベットのチャムは土着の宗教で、アニミズムの色が濃いボン教が起源だともいわれている。
ヘミス僧院のチャムはチベット仏教の開祖であるパドマサバヴァにまつわるものだが、この人は8世紀後半に活躍した人。東大寺の大仏開眼が752年で、そのとき伎楽が披露されたとしたらほとんど同時代だ。だとしたら、チベット仏教におけるチャムより、はるか以前からチベットではチャムが存在していて、それが東へと伝わり、日本にまでやってきたとも考えられる。
そこで思い出したのが、同じ仮面劇である能(猿楽)との関係だ。
室町時代の猿楽師・世阿弥は、猿楽の起源を釈迦が生きていたころのインドにもとめ、インドから中央アジアや中国を経て日本にまで伝来したと考えていたという。世阿弥は気づかなかったかもしれないが、インドから中央アジアの間にはチベットも存在していたかもしれない。
現在演じられている能楽の曲目の中には、「神歌」という特別に神聖な曲がある。
この曲は「能にして、能にあらず」といわれ、天下泰平・国土安穏・五穀豊穣を祈る神事としての謡と位置づけられている。
「とうとうたらりたらりら、たらりあがりららりとう」とシテの翁が謡えば、地謡が「ちりやたらりたらりら、たらりあがりららりとう」と受ける。
「とうとうたらりたらりら」とはいったい何というと、その意味するところについては諸説あり、ひとつの説として陀羅尼(だらに)歌ではないかというのがある。
陀羅尼とは、長文の梵語(サンスクリット語)を原語のまま唱えるものもので、いわば呪文のようなもの。古来、日本の寺院の法要の際、寺の芸能僧である呪師によって演じられる歌舞として伝わってきたのではないか、といわれる。つまり、一種の仏教的な呪文が「とうとうたらりたらりら」だというわけだ。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした僧の河口慧海は、チベットの陀羅尼歌が聖徳太子の時代に日本に伝えられた可能性があるとして、「とうとうたらりたらりら」のチベット語説を唱えている。
ひょっとして「とうとうたらりたらりら」はチベット起源の仏教の呪文的な意味が込められているのか?
ヘミス・ゴンパ(僧院)のツェチュ祭での読経に耳をすましたが、結局、わからなかった。
ツェチュ祭のあと、ふもとで待っている車に向かう。
お祭だけにいろんなおみやげを売っていた。
少年僧たちが歩いている。
迎えの車を待っているときに見た「HIMALAYAN」のバイク。
インド人にとっての聖地、ヒマラヤを走るアドベンチャーバイクという。
宿に帰る途中、ひときわ高い山がそびえていた。
レーからほど近いストック村の背後にそびえる標高6153mのストック・カンリだ。
レーに戻ると、道端で女性たちが楽しく踊っていた。
チベットダンスだという。
夕食は街の中にあるチベット料理のレストランで。
チベット料理の代表格モモ(蒸し餃子)はじめ、いろんな料理が登場。
お酒がないのが残念。
レストランからの帰り道、道路で放牧中?の牛がいた。