善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

マーティン・ブース 暗闇の蝶

火曜日朝の善福寺公園は快晴。朝はもう秋の気配。
下池のサクラの老木にキノコが育っていた。
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ラジオ体操に子どもたちの姿が少ないと思ったら、地元の小学校はきょう(30日)が始業式。授業時間確保のためか夏休み短縮の動きが各地で広がっていて、杉並区も・・・、という感じ。

マーティン・ブース『暗闇の蝶』(新潮文庫)を読む。

原題は『A Very Private Gentleman』。今年出た本だが、もともとは1995年に『影なき紳士』の邦題で出版され、その新訳。と同時に、さきごろ公開のジョージ・クルーニー主演の映画『ラスト・ターゲット』の原作である。

すでに映画で見ているだけに興味深く読んだ。というより、映画と比較しながら読めたのがおもしろかった。ふつう、こうしたミステリーっぽい話は、先に結末がわかっちゃうと興味をそがれるものだが、映画は映画でおもしろく、小説は小説でおもしろかった。

小説の方のあらすじはというと──。

話は主人公のモノローグで進んでいく。イタリアの山奥、小さな町に「私」は移り住んだ。表向きは蝶を描く画家、地元の人にはミスター・バタフライと呼ばれている。しかし、実際は闇の世界の罪人。世界中を転々とし、1カ所に留まることはない。とはいえ、そろそろ潮時だ。あと1回だけ仕事を受けて、この町に落ち着こう。そんな折、謎の男が「私」を追い始める。いったい誰が、何の目的で? 幻の名作、美しきミステリの新訳。

映画ではカメラマンと偽っていたが、原作では画家。映画では本業はスナイパーだったが、原作では狙撃用の特注の銃を作る職人。
ミステリーといいながら、ハデなアクションやサスペンスはほとんどない。むしろ、主人公がイタリアの田舎町の風景を語り、ワインや銃、国民性の違いなどについてウンチクを傾け、ちょっぴり思索的で哲学的であったりもする。日本人の感性とはまた違った作者の感じ方や考え方が作品に投影していて、興味が尽きない。

小説のテーマの1つは、異邦人と田舎町の人々との出会いと交流でもある。
映画ではジョージ・クルーニーアメリカ人という設定(タイトルも『The American』)だったが、小説ではイギリス人。
異邦人が見知らぬ土地にやってきたとき、仲良くなれるのはどこも酒場であるようで、小説でも、バールと呼ばれる居酒屋(というかコーヒーも飲めるたまり場)での土地の人々との交流が楽しく読めた。

そういえば、このブログの筆者である私も、知らない土地で人と親しくなった場所はやはり居酒屋だった。
今でも忘れられないのは、沖縄に仕事で行ったときのこと。那覇で何日かすごし、仕事を終えた日の夜、どこか飲み屋はないかと歩いていて、たまたま入ったヒージャー(ヤギ肉)料理の店で、偶然居合わせた3人の常連客と親しくなった。アルコールは人の警戒心を溶かしてしまうのだろう。互いに身の上話を始めたり、飲み進むうち話がはずんで、夜中になって、酔っぱらった私は店にいただれかの車で宿まで送ってもらった。翌日は東京に帰る日だった。
それから1年、あるいは何年かして、ふたたび那覇を訪れた。あの店が忘れられなくて、再訪しようとしたがいくら探しても見つからない。ヒージャー料理の店があったので勇んで入ったが違う店だった。仲良くなった3人の常連客も、ヒージャーづくりを見せてくれるというのでキッチンの中まで案内してくれた店の人も、いや店そのものが、今は幻だ。

話は戻るが、作者のマーティン・ブースは今はこの世にいない。
1944年英国ランカシャー生れ。少年期を香港ですごす。小説のほかテレビや映画の脚本を手がけ、詩人、書評家、伝記作家、児童書作家、社会史研究家でもあったというが2004年、英国デヴォンにて死去。

一気読みしてしまったが、主人公の末路というか最後のシーンは、小説より映画の方が断然よかった。