善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

ヘンリー六世

去年、新国立劇場で観た「ヘンリー六世」があまりにもよかったので、彩の国さいたま芸術劇場で上演中の蜷川幸雄演出「ヘンリー六世」を観る(4月3日まで)。

「ヘンリー六世」はシェイクスピアがナント20代で書いた最初の作品といわれている。1部、2部、3部に分かれていて、昨年の新国立劇場での公演は全3部9時間の一挙上演というので観に行った。今回は3部作を全編・後編に凝縮し、それでも6時間に及ぶ長丁場。

出演はヘンリー六世・上川隆也ジャンヌ・ダルクとマーガレット(ヘンリー六世の妻)・大竹しのぶ、サフォーク伯爵・池内博之ヨーク公吉田剛太郎、トールボット卿・原康義、リチャード・高岡蒼甫などなどといった配役。午後1時から始まり、休憩を挟んで終わったのは夜の9時を過ぎていた。

一度観ているので、どうしても前回との比較をしてしまう。全体の流れは変わらず端々でカットがあり、どうしてもダイジェスト版という感じがしてしまう。もともと9時間あったのを6時間にしたわけだから、3時間分はカットされている。するとどうしても細かいディテールは切り刻まざるを得ず、しかし、それがなくなってしまったのは寂しい気持ちもする。

とくにシェークスピアの劇作は、言葉の端々にすばらしい表現があり、暗示がある。スジに関係ないからとスパッと切られると、観ている方も身を切られるつらさを感じる。
たとえば次のような箇所。ジャック・ケイドという無頼漢が反乱を起こしロンドンに攻め込んでいく。「真っ先に、法律家どもを皆殺しにしようや」と息巻く肉屋の言葉を受けて、ケイドがまくしたてる。

「ああ、俺もそのつもりだ。まったく嘆かわしい話じゃねえか。罪もねえ小羊の皮で羊皮紙をこさえ、その羊皮紙になんかごちゃごちゃ書いて、人ひとり台無しにするってんだかな。蜂の針は人を刺すというが、俺にいわせりゃ問題は蜂の蜜蝋だ。俺もたった一度だが、証文の蜜蝋に判を捺した。それからこっち俺は二度と俺の主人じゃなくなっちまった。どうした? ありゃ誰だ?」

昨日の芝居では、このケイドのセリフのうち「蜂の針は・・・」以下が全文削除されていた。「証文の蜜蝋」の部分などは当時のイギリス社会を知る上でも貴重な史料ともいえるのだが、たしかにその部分がなくてもスジは通る。

前回と比べ、役者が違うと人物も違ってみえることを痛感した。
ヘンリー六世は、前回の浦井健治はピュアで透明感のある感じだったが、上川隆也はどこか熱血っぽく、ついついテレビの「白い巨塔」での正義感をあふれる弁護士を連想してしまう。マーガレットは、前回の中嶋朋子の冷徹ぶりに背筋がゾクゾクしたものだったが、今回の大竹しのぶはどこか可愛げがあってジャジャ馬っぽい。ヘンリー六世を皮肉るところではたびたび笑いが起きた。ただ、草刈民代(バレエをやめて役者になったんですね)の貴婦人役はちょっと下品でいただけなかったが・・・。

ナマでやる芝居は生き物であり、セリフだって必ずしも台本通りではない。演出家の解釈ひとつで、まるっきり違った内容になることだってある。そこが、イメージをふくらませるのはあくまで読者である小説との決定的な違いだろう。その意味で、同じ台本による芝居を2度観ることができたのは、とてもいい経験となった。日を経るにつれて、2つの作品が記憶の中で交差し、反芻(はんすう)することになるだろうが、それがまた、観たあとは記憶にしか頼ることができない「芝居」の楽しみともいえよう。