善福寺公園めぐり

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仁左×玉コンビの「於染久松色読販」

歌舞伎座「二月大歌舞伎」第2部を観る。f:id:macchi105:20210210132330j:plain

演目は四世鶴屋南北作「於染久松色読販(おそめひさまつうきなのよみうり)土手のお六 鬼門の喜兵衛」と、舞踊と清元の「神田祭」。f:id:macchi105:20210210132352j:plain

「於染久松色読販」では土手のお六を坂東玉三郎、鬼門の喜兵衛を片岡仁左衛門、ほかに河原崎権十郎坂東彦三郎など。続く「神田祭」では鳶頭の仁左衛門と芸者の玉三郎の共演で、まるで錦絵を見るような美しさ。

両演目とも3年前の歌舞伎座公演で観てるのだが、仁左衛門出演とあっては何度だって観たい。

 

「於染久松色読販」は大坂・油屋の娘お染と丁稚の久松が心中した事件をヒントにつくられた“お染久松もの”の1つ。物語の舞台を江戸に移して1813年(文化10年)江戸・森田座で初演された。

お染を演じる役者が早替わりで七役を演じ分けるというので通称「お染の七役」と呼ばれるが、きのう観たのは土手のお六、鬼門の喜兵衛の“悪党夫婦”が活躍する強請場(ゆすりば)だけを抜き出て、序幕の「柳島妙見の場」と「小梅莨屋(たばこや)の場」「瓦町油屋の場」。

 

お染久松は出てこなくて、ここでの主役は夫婦で暮している土手のお六(玉三郎)と鬼門の喜兵衛(仁左衛門)。惚れた男のためには悪事も厭わないお六と、いかにも強悪という感じの喜兵衛。2人は江戸の最底辺に暮らす悪党であり、自らの欲望のおもむくままに行動する“悪の美学”を鶴屋南北が生き生きと描き出していて、息のあった仁左衛門玉三郎という現在の歌舞伎界きっての黄金コンビが、歌舞伎の醍醐味のひとつである“悪党の魅力”をたっぷりと演じていた。

中でも死人を強請のタネに細工するところでは、早桶から出して細工をする場面ごとに仁左衛門の見得が入り、見ていてゾクゾクしてくる。客席からは拍手がわき起こる。本来なら大向こうからの声もかかるところなんだが(コロナの影響で自粛中)。

 

ただ、本来は長い話を土手のお六と鬼門の喜兵衛の名場面だけ抜き出しているから初めての人にはわかりにくいだろう。どんな話かというと――。

この物語で久松は、大名千葉家の家臣・石津久之進の息子として登場する。

父親の久之進は千葉家の家宝である「牛王吉光(ごおうよしみつ)」という名刀を紛失した責を負わされて切腹、お家は断絶。子の久松は百姓久作に引取られ、父の無念を晴らして御家再興を図ろうと浅草瓦町の質店、油屋の丁稚となって刀を探すが、油屋の娘お染と出会い、相思相愛の仲となる。

 

一方、刀は鬼門の喜兵衛が盗んだもので、喜兵衛は刀と折紙(刀の保証書)を油屋に質入し、その金を着服した上、使い込んでしまっている。

向島・小梅で莨屋を営む土手のお六のもとへ、千葉家の奥女中の竹川から手紙が届く。お六はその昔、竹川に仕えていて、亭主の喜兵衛も同家中の武士に中間奉公していて2人は駆け落ちした仲。そして、竹川は久之進の娘で、久松の姉だった。

手紙には、紛失していた刀と折紙が油屋にあることがわかったので、とり戻すために必要な百両の金を工面してほしいとある。昔の恩を返したいとお六が思案しているところへ、風呂上がりの喜兵衛が帰ってくる。それぞれ違う思惑からお金が欲しいお六と喜兵衛の夫婦は、たまたま莨屋に運び入れられた男の死体に細工をし、「お前の店の者とケンカして弟が死んでしまった」と言いがかりをつけて油屋から金を強請りとることを思いつき、乗り込んでいくが・・・。

しかし、夫婦共謀の強請も結局はあえなく失敗するというのが話のオチで、陰湿な“悪”一色ではなく、笑いを誘う喜劇っぽさも出しているところが南北のうまさだろうか。

 

この芝居に登場する名刀「牛王吉光」は実在する刀だ。

歌舞伎にはいろんな名刀が登場していて、江戸時代享保年間に実際に起きた事件「吉原百人斬り」をもとにして作られた「籠釣瓶花街酔醒」に登場するのが伊勢の名工村正(むらまさ)が鍛えたという「籠釣瓶」という名刀、というよりこちらは妖刀か。

「伊勢音頭恋寝刃」で、メンツをつぶされたうえに名刀をすり替えられたと思い込んだ主人公が大勢の人を斬りつける刀が「青江下坂」。

 

牛王吉光は脇差しで、伊達騒動で知られる原田甲斐が所持していたものとされ、寛文11年(1671年)3月27日、大老の酒井雅楽頭邸で騒動解決のための審問中、原田甲斐が同じ伊達藩の伊達安芸らに刃傷に及んだときに使用したのがこの牛王吉光だったという。

吉光は鎌倉時代の名刀工の一人。牛王は「牛の中の最上のもの」を意味し、吉光が鍛えた刀の中で最上のものということで名づけられたという。

 

玉三郎のお六と仁左衛門の喜兵衛のこの芝居、2018年の歌舞伎座「三月大歌舞伎」で観ていて、このときは1977年以来41年ぶりの2人の共演というので話題となった。

玉三郎がお六を初演したのが1971年6月、新橋演舞場の若手歌舞伎の舞台。玉三郎が21歳のときで、玉三郎はお六だけでなくお染も含め七役を演じた。このときの喜兵衛役が片岡孝夫(今の仁左衛門)で、27歳。2人とも若い!

もともとこの芝居の上演は明治以後は絶えていて、昭和初期に前進河原崎国太郎が復活上演。その後も「お染の七役」を得意としていて、玉三郎が初演するときも国太郎から教えを受けたという。

前進座は今から90年ほど前に松竹の封建的運営、門閥制度に反発した若手歌舞伎役者らによって結成された劇団。今も前進座と松竹はあまり接点はないみたいだが、玉三郎梨園の出身でないだけに、わだかまりはないのだろう。

戦後、松竹系の劇場で「於染久松色読販」が上演されたのは1958年10月の道頓堀文楽座が最初だった。このとき「お染の七役」を演じたのは七代目の大谷友右衛門(のちの四代目中村雀右衛門)。この人も名優だったが(何しろ文化勲章受賞者)、その後、何度も「お染の七役」を演じている。

しかし、玉三郎は埋もれていた演目を復活上演した前進座の国太郎に敬意を表したかったのだろう。

玉三郎は翌年の72年にも中日劇場と京都・南座で2回にわたり「お染の七役」を演じていて、このときの喜兵衛も片岡孝夫だった。

 

一昨年に続いて今年もこの演目を取り上げたということは、七役ではなくお六の一役だったとしても、玉三郎にとって、もちろん仁左衛門にとっても、思い入れのある作品のひとつなのだろう。