善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

四月大歌舞伎 「於染久松色読販」と「嫁菜売り」

東京・銀座の歌舞伎座「四月大歌舞伎」夜の部を観る。

平日午後、というか午後3半ごろの銀座。道行く人は外国人ばっかり。歩いている人の半分以上は外国人という感じで、一瞬、ここはどこの国?

この日は午前中、台風のような風雨の強い時間帯があり、それで日本人はジッと家の中にいて、相対的に外国人のほうが多かったということもあるだろうが、円安を享受しようとやってくる外国人が増えているのは確かだろう。

 

本日の演目は四世鶴屋南北作「於染久松色読販(おせめひさまつうきなのよみうり)」、「神田祭」、九條武子作「四季」の3本立て。

まずは四世鶴屋南北作の「於染久松色読販」。

上演されたのは土手のお六と鬼門の喜兵衛をめぐる名場面。

惚れた男のために悪事を働く“悪婆”と呼ばれる役柄の土手のお六を坂東玉三郎、色気ある悪に満ちた喜兵衛を片岡仁左衛門。1971年(昭和46年)に初めてふたりで演じて以来、上演を重ねてきた当り役で、歌舞伎座で観たのは2021年2月以来。

ほかに出演は中村錦之助坂東彦三郎ほか。

お六と喜兵衛の2人で死人をタネに強請を働くものの、あえなく失敗する顛末が描かれているが、フグで死んだ人間をいかにも殺されたように細工するところでは細工をする場面ごとに仁左衛門の見得が入り、凄惨なはずなのにうっとりしながら見るから不思議。

強請の場では、仁左衛門玉三郎のちょっと間の抜け掛け合いもあって、そこが南北の芝居づくりのうまさか。

凄味を見せながらも、結局は目論見が外れて退散するユーモアたっぷりの幕切れ。

 

続いては仁左衛門玉三郎の舞踊「神田祭」。「天下祭」といわれる神田明神の祭を題材に、粋でいなせな鳶頭を仁左衛門、艶やかな芸者を玉三郎が勤め、客席も華やぐ。

2人して大勢を相手にした立廻りも見どころ。

 

夜の部の打ち出しは、舞踊「四季」。明治・大正時代に活躍した女流歌人の九條武子の遺作で、1928年(昭和3年)初演。「春 紙雛」「夏 魂まつり」「秋 砧」「冬 木枯」を通した上演、また歌舞伎座での上演は実に43年ぶりとなるとか。

出演は、このところ共演が続く尾上菊之助片岡愛之助で女雛・男雛の仲むつまじい恋模様、中村芝翫とその息子・中村橋之助中村歌之助成駒屋一門による大文字の送り火と若旦那たち、片岡孝太郎勤めるところの李白漢詩をもとにした夫を思う若妻の心、尾上松緑坂東亀蔵のみみずくに尾上左近坂東亀三郎、尾上眞秀ほかによる木枯らしに吹き舞う木の葉の群舞。

とんぼやアクロバティックな動きも盛り込まれた、美しくもあり楽しい舞台だった。

 

ところで、鶴屋南北の作品を観ていていつも思うのは、江戸・下町の暮らしの雰囲気がよくわかるように描かれていること。

彼が活躍したのは、江戸時代も終わりにさしかかり町人文化が爛熟し尽くした文化・文政期(1804年~1830年)。長く下積みの生活を送った南北は、市井の風俗やはやり言葉、最下層の人々の暮らしをよく知っていて、舞台にも取り入れている。

たとえば、「於染久松色読販」に出てきたのは「嫁菜(ヨメナ)売り」。

参詣する人でにぎわう柳島の妙見大菩薩(現在の墨田区業平)に「嫁菜売り」がやってきて、この男が重要な役割を演じるのだが、江戸の町は棒手振(ぼてふり)と呼ばれる天秤(てんびん)棒の両端に商品の入った箱や籠を吊り下げて魚や野菜などの食材や日用品を売り歩く商売が盛んだったから、近郊の農家が畑で採れた嫁菜を売りにやってきたのだろう。

嫁菜は、今日では道端で見かける野菊の代表のような植物で、花は夏から秋にかけて咲くが、春の若い葉を摘んで食べることでも知られていて、日本では万葉の昔から親しまれている。名前の由来は、嫁のように可憐で美しいからとか、女性が好んで摘んだためなど諸説あるが、古名はオハギ、ウハギといって、万葉集にもその名が出てくる。

 

春日野(かすがの)に煙(けぶり)立つ見ゆ娘子(おとめ)らし春野の菟芽子(うはぎ)採(つ)みて煮らしも

 

(春日野に煙の立つのが見えるけど、きっと少女たちが春の野で嫁菜を摘んできて煮ているのでしょう)

 

古来、草花は薬草であり、万葉の時代には春の若菜摘みは摘んできたものを食べると長寿が得られるとの信仰があり、若い娘たちが若菜積みに出かける習慣があった。

同じような習慣はヨーロッパにもあり、夏至の前夜に草花を摘む習慣があるそうだが、シェークスピアの「夏の夜の夢」で妖精パックが摘んだのは惚れ薬になる薬草だった。

それはともかく、健康長寿のため若菜を食べる習慣の代表的なものが「七草がゆ」だろう。かつて高貴な人たちの習慣だったらしいが、江戸時代には庶民の年中行事にもなった。

七草がゆ」ではないにしても、春の若菜を食べるのは江戸の庶民の人気だったに違いない。「目には青葉山ホトトギス初鰹」の句がある通り、初物好きなのが江戸っ子。縁起がいいというので初物の菜にも目がなかったと思うが、庶民が暮らす江戸の町中には畑なんかない。野菜はもっぱら行商の野菜売りから買うしかなかった。

「嫁菜売り」もそのひとつだったに違いない。

江戸時代の百科事典ともいえる「守貞謾稿」(1853年)には、ウリやナスなど1、2品だけを売り歩く棒手振の行商人を前菜売り、数種を売るのを八百屋と呼んでいて、必ずしも店で売るだけが八百屋ではないことがわかる。

そういえば、落語に出てくる「唐茄子屋政談」も、放蕩して勘当された大店の若旦那が棒手振のカボチャ売りになる噺だった。