善福寺公園めぐり

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“悪の美”演じ納め 仁左衛門の「霊験亀山鉾」

東京・東銀座の歌舞伎座「二月大歌舞伎」第三部「通し狂言 霊験亀山鉾(れいげんかめやまほこ)」を観る。

「亀山の仇討ち」として世に知られる実際にあった事件を四世鶴屋南北が劇化したもの。

ただし、仇討ちより陰惨な返り討ちがメインという異色の芝居で、主人公の藤田水右衛門が仇討ちに来る人々を次々と返り討ちにする徹底した冷血漢ぶりが見どころ。血も涙もない極悪人・水右衛門と、水右衛門と顔がそっくりで水右衛門に味方する隠亡の八郎兵衛の二役を仁左衛門が演じ分ける。

史実では、江戸城松の廊下の浅野内匠頭の刃傷事件から2カ月後の1701年(元禄14)5月、伊勢亀山城下にて、2人の兄弟が父と兄の仇討ちを果たす。浅野の家来たちは主君の刃傷から1年あまりのちに仇討ちを果たしたが、亀山の仇討ちは艱難辛苦の果て28年目にしてようやく本望を遂げた。

この話を歌舞伎にした鶴屋南北作「霊験亀山鉾」の初演は1822年(文政5年)7月、南北68歳のときだったというが、元禄文化とはやや趣を異にする化政期(1804~30年)と呼ばれた時代の作品。

この時代は江戸幕府の終末を予兆するかのような文化の爛熟期で、もともと勧善懲悪から出発した歌舞伎だったが、このころになると「悪」にも美を見出すようになった。「悪の華」の代表的作品が「霊験亀山鉾」だった。

燃える棺桶の中からの早替わりとか、本雨が降る中での立ち回りなど見どころが多く、色気を備えた悪人を魅力的に演じるところがミソ。それができるのは、当代の役者では仁左衛門をおいて他にはいないだろう。

しかも悪役は2人いて、同じ悪でも水右衛門がねちこちとした「陰」なら、八郎兵衛は「陽」。当時の錦絵から扮装のヒントを得て役づくりをしたという仁左衛門による「色の使い分け」には、ただただウットリするばかり。

不敵な笑いを浮かべつつ、仇をねらう者を根絶やしにしてしまおうと、ふたつ、みっつとこれまで殺した数を数えながらに胎児ごと芸者おつまを惨殺するシーンなど、普通だったら観ている客も引いてしまうところだが、仁左衛門がやると「悪」が「美」となって万雷の拍手が起こるところが歌舞伎の不思議さ。

 

仁左衛門の「霊験亀山鉾」は2017年10月の国立劇場でも観ているが、何と今回、「片岡仁左衛門一世一代にて相勤め申し候」、つまり今回の舞台で演じ納めするというので、これは何としても行かなくちゃ、と劇場に馳せ参じた。

仁左衛門は今年79歳になる。昨年の2月には「義経千本桜」の「渡海屋・大物浦」の渡海屋銀平実は新中納言知盛を演じ納めていて、ほかのも含めて一世一代と銘打った芝居は今回が4作目となる。

役者は枯れてこそいい味を出すといわれるから、演劇的には年を重ね舞台を重ねることでますます上手くなるかもしれない。しかし、大立ち回りをしたりする舞台などでの彼にとっての敵は「若さ」のようだ。色っぽくて、ときにお茶目でときにニヒルなカッコいい役をやってきたのが仁左衛門。役によっては「年をとったね」といわれるのが耐えられないくらい嫌なのだろう。

鶴屋南北の研究者でもある古井戸秀夫・東京大学名誉教授は、「『霊験亀山鉾』と鶴屋南北」と題するエッセーの中で次のように書いている。

鶴屋南北は『亀山の仇討ち』を四度、脚色している。・・・はじめの二度で水右衛門に扮したのは五代目松本幸四郎、あとの二度は七代目市川團十郎であった。『鼻高(はなたか)』とあだ名で呼ばれた幸四郎はその細い目で睨むと、泣いていた子どもが泣き止んだという。また、團十郎がその大きな目で睨むと、大人の瘧(おこり、マラリア)が落ちたという。(2人とも)女性ファンが多く、色気のある美しい敵役(かたきやく)を本領とした。鶴屋南北は、水右衛門には悪の凄味だけではなく、女たちを魅了してやまない美しさが必要だと考えていたのである」

五代目幸四郎と七代目團十郎に負けないほど“悪の美”を表現できる役者が仁左衛門だが、美しく表現できる今のうちに芸を納めたいと考えたのだろうか。

 

仁左衛門は一世一代の渾身の舞台をつとめることによって、自分の芸を後進に伝えたいという気持ちも強いようだ。「作品を次に残していくという意味でも、映像ではなく生を観てほしい」と、公演の前に語っている。

1989年以降、「霊験亀山鉾」は国立劇場大阪松竹座ですでに4回上演されているが、歌舞伎座での上演は初めてのこと。1989年に二代目中村吉右衛門が主役の水右衛門をつとめて57年ぶりに「霊験亀山鉾」を復活させたあとの3回はすべて仁左衛門が主役をつとめていて、今回、彼は監修にもあたっている。

今回の舞台の共演陣には、芝翫のほか、坂東亀蔵坂東楽善の次男)、歌昇又五郎の長男)、千之助(孝太郎の長男で仁左衛門の孫)など若手も出ている。

「自分のあとを継ぐ水右衛門役者が出てほしい」と仁左衛門は期待しているのだろう。

補綴は2014年に亡くなった歌舞伎作者で演出家の奈河彰輔氏と、彼の弟子の今井豊茂氏。ここにも伝統の継承があるようで喜ばしい。

 

ところで、近年の「霊験亀山鉾」の上演史にも興味深いところがあるので触れておく。

鶴屋南北作の「亀山の仇討ち」を題材にした「霊験亀山鉾」は戦後は久しく上演されていなくて、1989年(平成元年)11月に国立劇場で、昨年亡くなった二代目中村吉右衛門の水右衛門により復活上演された。

その前の上演は1932年(昭和7年)で、実に57年ぶりのことだった。

1932年8月、新橋演舞場鶴屋南北原作、渥美清太郎改訂並演出「亀山の仇討」と題して上演したのは、松竹歌舞伎ではなく、前進座だ。

前進座はその前年の1931年、歌舞伎界の保守的体質に批判的な歌舞伎俳優によって結成された劇団。歌舞伎をメインとするけれど、女形とともに女優も所属していて、新しいタイプの伝統的現代劇団だった。

旗揚げ当初、本拠地としていた市村座が火事で焼失し困っていたところを、新橋演舞場から手をさしのべられて、同劇場初出演による「前進座“奮闘1周年記念”」と銘打っての「亀山の仇討」4幕5場が上演された。

四代目河原崎長十郎の水右衛門、四代目河原崎長十郎隠亡の八郎兵衛、五代目河原崎国太郎の芸者おつま、という配役。このときの料金は2円、1円、70銭、50銭だったとか。

前進座の舞台と同じ年の1932年11月にも、二代目実川延若の水右衛門で大阪・中座で「敵討亀山噺」と題して上演されている。しかし、このときのは今回の上演作品とは大きく内容が異なっているという。

その後、長く上演されなかったこの作品を、吉右衛門の水右衛門で1989年に「霊験亀山鉾」として復活上演したが、このときはもう片方の「悪」である八郎兵衛は省かれた。

それから13年後の2002年10月、初めて水右衛門をつとめたのが仁左衛門だった。

このとき彼は一人三役(藤田水右衛門、八郎兵衛、水右衛門の父の藤田卜庵)を演じ、三役を一人の役者がつとめるのは、江戸・河原崎座で五代目幸四郎が初演のときに三役を演じて以来、180年ぶりのことだったという。