善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

伊藤礼「まちがいつづき」

伊藤礼氏のエッセイ集『まちがいつづき』(講談社)を読む。伊藤氏は作家・伊藤整氏の次男で、元日本大学芸術学部教授(英文学)。ちなみに同書は1994年発行の古い本。

「ニョーボー」と題するエッセイがおもしろかった。

伊藤氏は教師なので、教室で出席をとるが、名前を呼ぶとき、男なら「クン」、女なら「サン」をつけて呼んでいた。中には性別判定不能の名前もあるので、学期のはじめに本人に確認し、男ならm、女ならfという印を名前の頭につける。
ある年の4年生に「小川正美」という学生がいて、男だったのでmという印をつけた。

学生たちは、最初のうちは出席するがやがて出てこなくなり、学年末試験が迫ってくるとまたやってくるようになる。
ある日の授業で、「小川正美クン」と呼んだら女性の返事がかえってきた。小川クンは、今まで男かと思っていたら女の人だったのか、mと印をつけたのは間違いだったのかと思って、「小川サンはどの人ですか?」と教室を眺め回すと、うしろのほうで女の学生がはずかしそうに片手で口元をおさえ、もういっぽうの手をちゅうぐらいの高さにあげていた。
「あなたですか。失礼しました」
伊藤先生はそういって、mを消してfという印に書き換えた。

翌週、「小川サン」と呼ぶと、今度は男の声で返事がかえってきた。伊藤先生はびっくりするとともに、男の友だちに代返を頼むとは小川さんもなかなかのものだ、と感心し、そしらぬ顔をして出席の印をつけた。

授業が終わると、さっきの「小川クン」がやってきて「先週は失礼しました」という。
「どういうことでしょうか」と伊藤先生は聞いた。失礼したのがさきほどではなく、なぜ先週なのか。
「じつは先週は女房をよこしました」

すごい、妻帯者だ、と思った。伊藤先生はまだ独身だったので、そうだとすると自分より格が上だと圧倒されたのだ。
「あ、そうですか。奥様でしたか……」
「女房も昨年まではここの学生でしたので……」

何でも小川クンは英語の単位を落として卒業できないまま就職してしまい、勤めていると忙しくてなかなか出てこれない。それでやむをえず先週は女房をよこしてしまった。「会社からは一年遅れでも必ず卒業するようにといわれているので、そのあたりご理解していただきたいのですが」
「ああ、そうだったんですか」
「これからも女房をよこしますからよろしくお願いします」
「それはいいが、学年末試験だけはなるべく自分でくるように」と念を押して、次の週からは晴れて奥さんが出席するようになり、正月がすぎて学年末試験がはじまった。

いつしか小川クンの一件のことは失念していて、試験のとき、奥さんがきたのか彼自身がきたのか確認しそこなった。
ところが、答案用紙を見ると、小川クンの名前の頭に、消したmと、書き換えたfがついていた。
以下、本文より。

私は彼の細君が亭主のために一生懸命ノートをとっていたのを思い浮かべた。そうして、いずれにせよこれは合格点をつけねばなるまいと思った。
しかし、合格点をつけたのはほんとうは彼が「ニョーボーをよこします」と言ったためだ。「ニョーボー」という言い方の気迫のためだ。彼はニョーボーを養わねばならない。したがって、彼をクビにさせてはならないからだ。
人生は気迫だ。それに尽きる。

昔は伊藤氏のような先生や、小川クン(サン?)のような学生がいたなー。