善福寺公園めぐり

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玄奘三蔵、シルクロードを行く(最終回)

玄奘三蔵シルクロードを行く』を読んでの最終回。
本書における玄奘の旅は、ガンダーラの手前で終わっている。

その後、インド各地をまわり、再びシルクロードを経て故国に帰り着いたとき、玄奘46歳。出かけるときは密出国だったが、帰国の際は雲霞のような人々に迎えられ、将来(持ち帰った)品を運ぶため、ゆうに馬20頭の背を借りなければならなかったという。
玄奘が持ち帰った経典は総計657部。
今日、日本で最も読誦される「般若心経」の基となったのは、玄奘が翻訳したものだという。

また、仏像7体のほかに「如来の肉舎利一百五十粒」を持ち帰っている。つまり、釈迦の骨150粒という意味だ。
舎利には種類があって、白いのが骨舎利、黒いのが髪舎利、赤いのが肉舎利で、釈迦の歯とされるのは牙舎利、ホンモノがなくてもお経を舎利がわりにするときは法舎利というのだとか。
釈迦の舎利は日本にも伝来していて、鑑真は34粒、空海は80粒を日本に持ってきたという。ひょっとして玄奘が持ち帰った舎利の一部だろうか?

ちなみに鮨飯のことをシャリというのは「精米した白いご飯」のこと。その昔、米を食べるにしても玄米で、精米したのを食べるのは稀だった。昔の人は経験上、そのころの食事バランスの関係上、精白した米を食べるとビタミンB1不足になり、脚気になるのを知っていたのだ。それでも白米のおいしさは格別で、大名とか裕福な連中は食べていた。歴代将軍の死因で一番多いのは白米の常食による脚気だという。
お米が真っ白に輝いているというので、お釈迦さまの骨のようにありがたいという意味を込めてシャリとか銀シャリという言葉が残った。文楽や歌舞伎の「鎌倉三代記」(1781年)に「もふ夕飯時分じゃがしゃりは有るかへ」というセリフがある。

玄奘の旅は約17年に及んだ。帰国したのち仏典の翻訳に約17年。63歳で入寂。

本書からは話が飛ぶが、玄奘の舎利も数奇な運命をたどっている。玄奘の遺体は長安の近郊に葬られたが、その後、遺骨は2度にわたって行方不明となり、ある偶然から発見された。ナント、発見したのは日中戦争のさなかの日本軍だった。

1937年12月、日本軍が南京を占領。42年、軍隊が進駐していた兵器工場の裏山に参拝用の稲荷神社を建てるため、掘削作業をはじめたところ、奇妙な土層が発見された。専門家がさらに掘り進めると石棺を見つけ、詳しく調べた結果、中に収められていたのは玄奘の遺骨とわかった。どうやら遺骨はさまざまな地を彷徨したようだ。まるで生前の玄奘のように。

日本が中国を侵略していた時代。遺骨の一部は日本に運ばれ、今も岩槻市慈恩寺と奈良の薬師寺にある。以下、薬師寺のホームページより。

昭和17年(1942)に南京に駐屯していた日本軍が土中から玄奘三蔵のご頂骨を発見しました。その一部が昭和19年(1944)に全日本仏教会にも分骨されましたが、戦時中でもあり、埼玉県岩槻市慈恩寺に奉安され、その後ご頂骨を祀る石塔が建てられました。薬師寺玄奘三蔵と深いご縁のある事から、遺徳を顕彰するため全日本仏教会より昭和56年(1981)にご分骨を拝受し、平成3年(1991)玄奘三蔵院伽藍を建立しました。平成12年(2000)12月31日に平山郁夫画伯が入魂された、玄奘三蔵求法の旅をたどる「大唐西域壁画」は、玄奘塔北側にある大唐西域壁画殿にお祀りしています。