善福寺公園めぐり

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玄奘三蔵、シルクロードを行く(きのうの続き)

前田耕作著『玄奘三蔵シルクロードを行く』(岩波新書)の続き。

それにしても玄奘はなぜインドに行くのにシルクロードをたどったのだろうか。

インドに行く別のルートとしては、今の青海省からチベットのラサを通り、ヒマラヤ山脈を越えていく道があった。ただし、眼前には峻険な山々がそびえており、容易に人を寄せつけない。それでも、筆者はかつてヒマラヤ山脈の南にあるブータンやネパールを旅行したことがあるが、チベットとの交流はけっこう盛んで、ブータンの宗教はインドからチベットに伝わり栄えたチベット仏教である。

“もう1つのシルクロード”と呼ばれるルートもあった。「茶馬古道」と呼ばれ、馬を主要な交通手段にした国際商業貿易ルートだ。

今の雲南省の茶産地を起点に西北に向かい、大理や麗江を経てラサに至ったあと、さらに南下してミャンマー、ネパール、インドなど南アジアや西アジアに到着するコースと、四川省から凉山を経由し、麗江で前者のコースと合流してチベットなどを経てネパール、インドに至るコースがあった。
主として西南部の辺境での交易ルートで、唐の時代にはすでに盛んに人の行き来があったという。筆者も今年の正月、「茶馬古道」の要衝、麗江を訪れている。

ただし、現代人は飛行機でひとっ飛びだが、当時は山あり谷ありの大変な道のりだったに違いない。雲南という地名も、唐の都・長安からながめてはるか遠くの雲のさらに南というので雲南と名づけたというほどで、今も少数民族が多く住んでいるところだ。『三国誌』には蜀(この国を興した劉備が、孫権と結んで「赤壁の戦い」で曹操を破った話が映画「レッドクリフ」。このブログの筆者の写真も実は劉備)という国が中国の西南部に登場するが、蜀の支配も雲南チベットには及んでいなかったろう。

玄奘は「不東の旅」に出る前、中国各地を遊学し、かつて蜀の首都だった成都までは行っている。しかし、さらに南へと続く道は、たとえ知っていたとしてもたどるのは困難と考えていただろう。

一方のシルクロードは、インドで誕生した仏教が中国へ伝わっていった主要なルートでもあった。シルクロードは東西をつなぐパイプとなっていたから、仏教が伝わっていく際も、ギリシャ、ローマ、ペルシャなどの要素も取り込み、少しずつ形を変えながら、その地域に根ざしていったのだろう。そのように仏教が変化発展していくさまを、玄奘はわが身で体感したかったのかもしれない。玄奘よりはるか昔に活躍した中国仏教初期の訳経僧たちの多くは、シルクロード周辺諸国出身だったという。先人たちの足跡もたどりたかっただろう。

しかも、シルクロードはある程度街道が整備されていたし、行きやすい道だったはずだ。それでも、険しい雪山や沙漠を越えていく苛酷な道だった。本書によると、玄奘が歩いた道をたずねようと何人もの人がチャレンジしているが、21世紀の今に至るも「九折の道」と呼ばれる難所中の難所は、いぜん未踏のまま残されているという。