善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

玄奘三蔵、シルクロードを行く

前田耕作著『玄奘三蔵シルクロードを行く』(岩波新書)を読んでいる。まだ途中だが、『西遊記』のモデルともなった玄奘三蔵が、真理と学問探求のためシルクロードを通ってインドにわたる旅を、残された資料をもとに再現し、どんな道を通り、どんな人と出会い、どんな苦労をしたのかを追体験しようというのが本書の趣旨。なかなかの美文調で、引き込まれる。

玄奘は602年に生まれ664年没。隋が滅び、唐が興ったのが618年で、日本では聖徳太子法隆寺を建立したとされるのが607年。今から1300年も前の平城遷都より、さらに100年も昔の話。
本書の書き出し。

「洛州河南の田舎にあって、動乱に明け暮れる俗世の哀歓を冷静にながめ、時を過ごす一人の男に四人目の男子が生まれようとしていた。隋の文帝が着手した黄河と淮水(わいすい)を南北に結ぶ運河、通済渠の開鑿工事はいまだ完成せず、車馬と人声の騒然としたどよめきがはるか遠くに響きわたっていた」

やがて誕生した玄奘は、幼くして父母をなくし、10歳のとき兄とともに出家。各地を転々としながら熱心に仏教を学ぶ。やがて、仏典の研究のためには直接、原典に向き合うほかはないと決意し、国禁を侵し、仏教の聖地インドに向け長安を離れたのは28歳のときだった。いつの時代も青年は荒野をめざす。

旅の途中、現在のトルファンに近い高昌国に至り、そこでの国王とのやりとりが面白い。本書の内容に筆者の空想をちょっぴり加えると、こんな話だ。

高昌国は現在の新彊ウイグル自治区・高昌を中心に独立を保った漢人国家。当代の王、麹文泰が玄奘を迎えたのは、父親の跡を継いで王になってから8年目のこと。王は高昌国に仏教を広めようとしていたときで、若く、聡明で、なおかつ美形の玄奘を一目見るなり惚れ込んで、こう懇願した。
「ぜひともこの地にとどまり教えを広めてくれませんか?」
「いえ、私はインドに向かわなければなりません」
「どうしてもですか? それならこちらにも考えがあります。国禁を侵して出国したあなたを強制送還することだってできるんですよ!」
「ええ? そりゃあんまりだ」

玄奘は断食して抵抗。ついに断食から4日目、衰弱し、それでも清らかな眼差しの玄奘を見た王は、強制のムダを知った。
断食のさなか、王は玄奘のつぶやきを聞いたのだった。それは「不東(東へは戻らない)」という言葉だった。
「貧道為求大法 発趣西方 若不至婆羅門国 終不東帰 縱死中途 非所悔也」
(私は大法を求めんがために西方に発つのです。もしバラモン国(インドのこと)に至らなければ、けっして東に帰って来ません。たとえ途中に死が待ち受けようと、悔いはありません)

王は自分の邪心を悔いた。
「何と志の高い人よ。致し方ない。あなたが求法の旅を続けるのを許すとしよう。そのかわり、条件が2つあります。ひとつは、インドからの帰り道には必ずわが高昌国に立ち寄り、3年の間はとどまって、私たち弟子の供養を受けてください。ふたつめは、もうひと月だけとどまって、仏教の講義をしてください」
玄奘は同意し、1カ月間この地にとどまり、仏典の講義を行った。王はいよいよ尊崇の念に包まれた。ひと月はあっという間にすぎていった。王は別れを惜しみつつ、法服30具に、西域の冬の厳しさをしのげるようにと、手袋や靴、足袋などもそえて寄こした。ほかにも黄金や馬20頭、下働きの者25人、他国を通る際の貢ぎ物なども支給してくれた。
心打たれた玄奘は、「インドからの帰途には必ず、この地を再訪します」と約束した。
別れの朝、王は城の西に見送りに出た。名残は尽きず、思わず玄奘を抱き締めて涙にくれる。王は馬を曳いてこさせ、騎乗して玄奘に付き添い、なお数十里も行をともにして別れた。
しかし、現世で2人はふたたび会うことはなかった。

それから12年の歳月が流れた。玄奘が約束を守って高昌国を再び訪れようとしたとき、すでに王はこの世にはなく、国もまた滅んでいた。

玄奘が訪れた高昌国の城は、今も遺構を残している。風化が進んだ赤茶色の粘土の塊が、砂漠の強い光の中で往時を偲んでいる。
(下の図は本書より。太線が玄奘のたどった道)

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