善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

なぜホトトギスは「忍音」をもらすのか?

木曜日朝の善福寺公園は曇りのち雨。少し肌寒い。

 

ヤマボウシが咲いている。

こうして見ると、白い頭巾をかぶった法師(僧兵)に似ているというので名がついた、その由来がよく分かる。

 

卯の花(ウツギ)も咲いていた。

が、雨が降り出したので早々に退散する。

 

帰り道に口ずさんだのが「夏は来ぬ」という子どものころ覚えた唱歌だった。

 

卯の花の 匂う垣根に 

時鳥(ホトトギス) 早も来鳴きて 

忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

 

子どものころ、「忍音(しのびね)もらす」の意味がわからなくて、オシッコでも漏らしたのかと思ったり、「シノビネってなんだろう?」とも思ったりした。

今、あらためて辞書(日本国語大辞典)をひくと、忍音とは「四月頃に聞くホトトギスの初音 (はつね)。声をひそめた鳴き声で、本格的に鳴く前のもの。また、ウグイスなどにもいう」とある。

ところが、これはとんでもない間違いだ、との説がある。

ホトトギスの忍音とは、ホトトギスの初音でも、声をひそめた鳴き声でも、本格的に鳴く前のものでもなく、かつて平安時代以降にホトトギスが鳴くべき月とされた旧暦5月よりも早く、旧暦4月に鳴く声のことを「忍音」といったのである、というのだ。

 

ホトトギスは、オスの鳴き声が「特許許可局」とか「てっぺんかけたか」などと聞こえるので知られるが、アフリカ東部、マダカスカル、インドから中国南部までに分布し、日本には5月ごろに夏鳥として渡ってくる。

万葉の時代は、ホトトギスの鳴き声が聞かれるのは旧暦の4月、つまり新暦では4月下旬から6月上旬のころで、「万葉集」などでもそう詠まれていて、実際にホトトギスが日本に渡ってくる時期と一致する。

ところが、平安時代になると違ってくる。そのころに詠まれた歌などからすると、ホトトギスの出現時期は万葉の時代より1カ月ほど遅くなり、旧暦の5月になってからようやく鳴き声が聞こえるとなってくるのだ。

しかし、実際にはホトトギスは旧暦4月には渡ってくるのだから、どうしたって鳴く。そこで生まれたのが「忍音」という言葉で、本来なら5月に鳴くはずが早くも鳴いちゃってるので、こっそり鳴く声、つまり「忍音」というわけなのだ。

平安時代歌人和泉式部の日記「和泉式部日記」に次の歌がある。

 

ほととぎす世にかくれたる忍び音をいつかは聞かん今日も過ぎなば

 

この歌は旧暦4月30日に詠まれたもので、「ホトトギスは4月中までは声を忍ばせてこっそり鳴くというけど、4月の末になっても鳴き声が聞こえず、今日がすぎたらいつになることやら」と、男との「忍ぶ恋」にひっかけて詠んでるらしいのだが、本来なら5月に鳴くはずのホトトギスが4月に鳴くことを、内緒で鳴く声、つまり「忍音」といってる。

 

西行も「山家集」の中でこう詠んでいる。

 

ほととぎすしのぶ卯月も過ぎにしをなほ声惜しむ五月雨の空

 

ホトトギスが忍び鳴く卯月(旧暦4月)をすぎたのに、梅雨空になってもまだ声を出し惜しみしている、といった意味か。

ここでも、平安時代においては旧暦4月に鳴くホトトギスの声は「忍音」であるといっている。

 

それにしても、なぜ平安時代ホトトギスが鳴くのは5月とされ、4月に鳴いていた万葉の時代より1カ月もずれてしまったのだろうか?

その理由は、中国からの伝承の影響ではないかと思う。

平安時代ホトトギスは「死出の田長」とも呼ばれた。

これはどんな意味かというと、古代中国では、蜀(しょく)の王・杜宇(とう)が死んだのちホトトギスとなったとの伝説があり、ホトトギスが鳴くとき、蜀の人々はこれは杜宇の魂が鳴いて農業生産に励めといっているのだというので、農事にかかったといわれる。

その故事が平安のころに日本にも伝わり、旧暦の田植え月である5月にホトトギスは鳴く、いや、鳴いてもらわなくちゃ困る、となったのではないだろうか。

旧暦5月は皐月(さつき)と呼ばれるが、「さつき」の「さ」は農耕を意味する古い言葉で、「早苗月」というのがもともとの言葉といわれる。苗代から早苗を田んぼに移しかえる田植えの時期というわけで、新暦に当てはめれば5月下旬から7月上旬ごろのちょうど梅雨のころとなる。

旧暦5月は今の言葉の中にも生きていて、梅雨の長雨は「五月雨(さみだれ)」だし、「五月(さつき)晴れ」は梅雨の晴れ間をいう。

 

「夏は来ぬ」で歌われる卯の花は、旧暦4月の卯月に咲くので卯の花。作詞した佐々木信綱は、その意味をちゃんと知っていて、ホトトギスの声を「忍音」としたのかもしれない。