善福寺公園めぐり

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シーボルトも魅せられた「妹背山婦女庭訓」

10月末に閉場する国立劇場の建て替え前の最後の歌舞伎公演は、9、10月の「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の通し上演。

9月は前半で、ときは飛鳥時代大和朝廷の権力者である蘇我入鹿に苦しめられる大判事と太宰少弐(だざいのしょうに)両家の人々の姿が描かれる。

大判事というのは律令制下の刑部省の役職の1つで、もろもろの訴訟を裁く判事の最上級の役職で正五位下相当。一方、太宰少弐とは太宰府の次官のことで従五位下相当。

蘇我入鹿天智天皇を補佐する大臣(おおおみ)だったが、天皇の忠臣である藤原鎌足に無実の罪を着せて天皇のそばから遠ざけ、天皇の地位を奪おうと企んでいるという設定で、奈良の都が物語の舞台となる。

「妹背山婦女庭訓」はもともと文楽作品で、今から250年余り前の明和8年(1771年)1月、大坂竹本座にて初演。不人気のため潰れかけていた竹本座が、この作品のヒットで息を吹き返したという伝説を持ち、歌舞伎でも同じ年に大坂小川座で初めて上演されている。

上演された時代は江戸時代中期で、4年前の明和4年(1767年)田沼意次が将軍の側用人となり、田沼時代が始まったころ。江戸の最も江戸らし い文化が成熟した時期といわれるが、大坂の文化も華やかだったころだろう。

 

「妹背山婦女庭訓」がテーマとしているのは、はるか昔、奈良時代よりもっと前の飛鳥時代に起こった大化の改新(645年)。

中央集権国家としての日本の歴史はここから始まったといわれるほどの政治的事件であり、蘇我蝦夷とその子・曽我入鹿、中臣(藤原)鎌足などがほぼ史実どおりの役回りで登場していて、時代物ではあってもほかの歌舞伎作品とはちょっと違う感じの異色の舞台となっている。

その作劇たるや、観客の度肝を抜くような趣向が散りばめられている。

藤原鎌足による蘇我入鹿の誅伐(ちゅうばつ)という史実を背景にしながら、架空のエピソードがてんこ盛りになっていて、何と入鹿は、父の蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたため、超人的なパワーを持つ恐るべき怪物として登場。日本の支配者たらんことを宣言し宮中に攻め入っていくというダークファンタジーになっている。

天智天皇は病のため盲目になっていて、治すには神鏡の力が必要であり、魔力を持つ入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と嫉妬深い女の血が必要というわけで、ドラマが盛り上がっていく。

間に挟まれるエピソードもなかなか斬新で、第一部の9月公演で描かれるのは「日本のロミオとジュリエット」ともいわれる若い恋人たちの悲劇。

通称「山の段」と呼ばれる舞台は、中央に桜満開の吉野川が流れ、上手の背山に大判事清澄の山荘、下手の妹山には太宰の下館(別邸)。義太夫太夫と三味線も上手と下手にわかれて床が設置され、ふだんの歌舞伎公演ではない上手側にも花道が設けられ、両花道を大判事と太宰少弐の後室(未亡人)定高(さだか)が歩いていく。花道の途中で2人が声をかけ合うが、これは川を隔てて会話しているという演出。観客は、両岸で繰り広げられるドラマを川の中から見る感じとなる。

これなんかもまさしくファンタジック。

 

今から200年近く前、大坂で歌舞伎の「妹背山婦女庭訓」を観て、奇想天外なドラマの展開にいたく感激したのがシーボルトだった。

彼は鎖国時代の長崎・出島のオランダ商館に医師としてつとめていたが、日本に当時のヨーロッパの医学を伝えただけでなく、植物学や生物学、地理学などの多彩な才能を生かして日本を研究し、帰国後は当時のヨーロッパにおいて日本学の祖として海外に日本のことを広めたことでも知られる。

文政9年(1826年)、オランダ商館長の江戸出府に随行したシーボルトは、江戸滞在中には七代目市川団十郎と会っていて、帰路、大坂道頓堀の角座で「妹背山」を観ている。

このときの演目は「妹背山」の大序から三段目まで、「傾城反魂香」の「吃又」、「忠臣蔵」の九段目などで、役者は三代目尾上菊五郎、五代目市川団蔵、四代目尾上松助、二代目大谷友右衛門、二代目中村芝翫(後の四代目歌右衛門)ら。ひょっとして菊五郎が大判事を演じたのだろうか?

シーボルトは「妹背山」だけを観て帰ってしまったようだが、それほどこの芝居の印象が強かったのだろうか。ヨーロッパへ戻ったシーボルトは、「妹背山」のことを著書に書き、それを読んだドイツ人の歌劇作曲家ジャコモ・マイアベーアが、「盲目の皇帝」というタイトルでオペラ化しようとしたという。

この話は、フランスの作家アルフォンヌ・ドーデが書いた短編集「月曜物語」(1873年)の中の「盲目の皇帝」に出てくる。

ドーデによるとシーボルトは、ヨーロッパではまだ知られていない傑作だというのでマイアベーアに翻訳した原稿を見せ、マイアベーヤも作曲を始めたものの、合唱曲を作曲中に亡くなってしまったため挫折してしまったという。

1866年、ドーデはパリを訪れていたシーボルトと出会う。このときドーデ26歳、シーボルト70歳。シーボルトは、日本文化に興味を抱いていたドーデに、16世紀に描かれた日本の悲劇である「盲目の皇帝」の草稿を持っているのであとで送ってあげようと約束するが、ヨーロッパで戦争が始まったりして、その後、なかなか連絡がとれない。どうしても「盲目の皇帝」の内容が知りたいと意を決したドーデは、シーボルトが当時住んでいたミュンヘンまで出かけて行く。

ビアホールで再会したシーボルトは、声高に「盲目の皇帝」の悲劇の章句を口にしたり、合唱部を歌ってみせたりして、「あすの朝、来たまえ。一緒に読もう。そりゃすばらしいぜ」と目を輝かしながらいい放つ。

そこで翌朝、ドーデがシーボルトのところへ出かけていくと、家の門は固く閉ざされ、中からむせび泣きの声が聞こえる。シーボルトは夜中に急死したのだった。

ドーデは遠く離れた東洋の国・日本に憧れを持っていた人だったらしいが、結局、「盲目の皇帝」の内容は知らないままミュンヘンを去っていった。

ドーデは「こんなわけで、私は最後まで、日本のすばらしい悲劇の題だけしか知らなかった」と締めくくっている。

彼はフランスとドイツの国境にあるアルザス地方で故国フランスの別れの日の授業の様子を描いた「最後の授業」で日本でも知られる作家。「最後の授業」は「月曜物語」の冒頭に、「盲目の皇帝」は最後に収められている。

 

きのうの国立劇場での公演では、太宰後室定高に中村時蔵蘇我入鹿坂東亀蔵、久我之助清舟に中村萬太郎、腰元小菊に市村橘太郎、采女の局に坂東新悟、太宰息女雛鳥に中村梅枝、大判事清澄に尾上松緑という配役。

時蔵のうまさ、梅枝の美しさに聞きほれ見とれた。

また、腰元小菊の市村橘太郎の滑稽な演技が笑いをとっていた。悲劇にちょこっと喜劇が加わると、悲劇はより味わい深くなるものだ。

 

10月はいよいよ初代国立劇場の最後の舞台、「妹背山」の後半、第二部だ。