善福寺公園めぐり

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「妹背山婦女庭訓」に見る「苧環」の意味

10月末にいったん閉場する国立劇場の建て替え前の最後の歌舞伎公演は、9、10月の「妹背山婦女庭訓(いもせやまおんなていきん)」の通し上演。

ロビーにあるぼんぼりに似せたという照明も見納め。

ときは飛鳥時代藤原鎌足らが蘇我入鹿を倒した「大化の改新」をモチーフに、架空と実在の人物が入り交じって活躍する時代物と呼ばれる歴史物語で、9月の第1部に続く第2部は、「道行恋苧環(こいのおだまき)」「三笠山御殿の場」を経て、「三笠山奥殿の場」「同 入鹿誅伐の場」で大団円を迎える。

歴史物語といいながら、10月の第2部は、ひとことでいえば造り酒屋の娘お三輪をめぐるラブストーリーというか三角関係の悲恋の物語。

お三輪を演じるのは尾上菊之助で、藤原鎌足中村時蔵(体調不良のため休演する菊五郎の代役)、烏帽子折の求女実は藤原鎌足の息子藤原淡海・中村梅枝蘇我入鹿の妹の橘姫・中村米吉、漁師鱶七実鎌足の家臣の金輪五郎今国・中村芝翫蘇我入鹿中村歌六ほかの出演。

 

あらすじを簡単にいうと――。

三輪山の麓に住む杉酒屋の娘お三輪は、隣に住む美男子の求女といい仲になっている。ところが、求女の正体は藤原鎌足の息子・藤原淡海で、彼は蘇我入鹿の追及から逃れるため名前を偽って潜んでいるのだった。

実は淡海には橘姫という恋人がいて、自分の素性は橘姫にもお三輪にも内緒にしている。その橘姫がこっそり求女に会いにやってきて、それを見つけたお三輪は逆上。橘姫との恋のさや当てを繰り広げる。

逃げていく橘姫の袖に、求女は手にした苧環(おだまき)から出した白い糸をつけてあとを追う。一方のお三輪は苧環の赤い糸を求女の袖につけ、それを頼りに追っていく。

橘姫がたどり着いたのは入鹿の立派な御殿。そこに求女も着くと、姫の侍女たちが求女を奥へと通す。実は橘姫は入鹿の妹だった。それを知った求女実は淡海にとって入鹿の命をねらう絶好のチャンス到来となった。

あとを追ってきたお三輪は、侍女たちに邪魔され求女に会えない。その上、2人の祝言を祝う声を聞いて驚く。奥の間へと入ろうとすると、いじわるな侍女たちに見つかって散々いたぶられ、ついには嫉妬に狂ったお三輪。

逆上したお三輪の前にあらわれたのが、漁師・鱶七と偽って屋敷に入り込んでいた鎌足の家来・金輪五郎で、お三輪の腹を刀でえぐる。

入鹿を倒すためには、爪黒の鹿の血と「疑着の相(千人万人に一人という嫉妬に狂ったときにあらわれる稀な人相)」を持つ女の血が必要で、金輪五郎はお三輪からその生き血を手に入れようとしたのだった。求女の大望に役立つのならとお三輪は未来で添えることを願い、白い糸を巻いた苧環を抱いたまま死んでいく。

お三輪の生き血と、淡海や金輪五郎の活躍で、ついに入鹿を打ち倒すのだった。

 

大化の改新」という史実を描きながらも、歌舞伎だけに架空の筋立てがてんこ盛りになっていて、何と入鹿は父の蝦夷が白い牡鹿の血を妻に飲ませて産ませたため、超人的なパワーを持つ恐るべき“妖怪”として登場している。

退治するには尋常なことでは通用しない。魔力を持つ入鹿を滅ぼすには爪黒の鹿の血と、「疑着の相」を持つ女の血が必要というわけで、ターゲットになるのがお三輪というわけなのだ。

同時に、歌舞伎の時代物で欠かせないのが「庶民の悲劇」。

藤原鎌足蘇我入鹿といった歴史上の人物の活躍だけでは、余りに遠いところの話で観客はついてこない。何しろ観客の多くは一般庶民なのだから、彼らが共鳴しやすい人物を登場させようというので出てくるのが、一派庶民の代表、お三輪であり、そこに鎌足の息子という高貴な人に恋する身分違いの悲恋物語を加えれば、観客は自分の身に置き換えて物語の世界に入っていき、哀れなお三輪にもらい泣きして袖を絞ることになる。

 

さらに作者が、一般庶民にもわかりやすい、物語にぴったりのアイテムとして持ち出したのが「苧環(おだまき)」だ。

苧環とは、紡いだ糸を、内側が空洞になるようにして繰り返し球状に巻いたもの。古代では麻や苧(お、カラムシのこと)などが糸として使われていたといわれる。

布を織るには縦糸と横糸を交差させて面である布にする必要があり、その装置が織機(おりき、はた。機という漢字一字でも「はた」と読ませる)。

織機で布を織るにはたくさんの糸が必要となるが、横糸・縦糸が絡まないよう玉状や環状にして貯めておくもの、これが苧環だった。

「妹背山・・・」では、求女は橘姫の袖に苧環の白い糸をつけ、お三輪は求女の袖に赤い糸をつけて互いにあとを追っていき、「道行恋苧環(こいのおだまき)」となる。

 

男女の関係を苧環の糸がつなぎとめるという話は、古事記に出てくる三輪山にまつわる「苧環伝説」に由来しているという。

三輪山の近くに住む美しい乙女、活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとに夜ごと男が訪ねてきて、やがて姫は身ごもる。男の素性を怪しんだ両親は、姫に苧環の糸を通した針を男の袖に刺させ、翌朝その糸をたどると三輪山の神社まで続いていて、男の正体が大物主大神(おおものぬしのおとかみ)であると知り、お腹の中の子が神の子と知る。このとき、苧環の糸が三巻き残っていたことから、この地を三輪と名づけたのだといわれる。

残った糸を土に埋め、それが苧環塚となって今に残っているという。

 

三輪山苧環伝説は、能の「三輪」にもなっているが、古来、苧環は繰り返し歌にも詠まれている。

 

源義経の側室・静御前が鎌倉で捕らえられていたとき、頼朝と政子の求めに応じて鶴岡八幡宮で歌舞を奉納した。このときの歌の中には次の歌があったと「吾妻鏡」で描かれている。

 

しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな

「しづ」とは「倭文(しづ)」のことで、古くは「しつ」と呼ばれ、唐から織物が渡来する以前から日本で織られていた織物を意味する。「倭文」という文字は、あとに入ってきた渡来の織物と区別するために「しつ」の音に「倭文」の漢字を当てたとされている。

静御前が舞った「しづやしづ・・・」の意味は、静御前が自分の名前の「静」を「倭文(しづ)」とかけつつ、頼朝の世である今を、義経が活躍していたか昔に変えることができれば、と歌っているというので、それを聞いていた頼朝は激怒。政子が取りなして何とかおさまったという話が伝わっている。

 

静御前が舞った「しづやしづ・・・」には本歌があり、それは「伊勢物語」第32段に出てくる次の歌で、作者は在原業平といわれる。

 

昔、もの言ひける女に、年ごろありて、

いにしへの しづのをだまき 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな

と言へりけれど、なにとも思はずやありけむ。

 

静御前はこの歌の最初の部分だけ変えているが、「伊勢物語」に出てくるこの部分の意味は、「昔、逢瀬を持った女に何年かたって、いにしえの倭文の苧環で何度も繰り返し糸をまくように、私たちの関係ももう一度あのころに戻すことはできないだろうか、といったけれども、女は何とも思わなかったのか、返事はなかった」と、ずいぶん艶っぽい話になる。

 

さらに「伊勢物語」に出てくる歌にも本歌がある。

古今和歌集」第17の題知らず・詠み人知らずの次の歌だ。

 

いにしへの 倭文の苧環 いやしきも よきも盛りは ありしものなり

 

いにしえのしづ(倭文)の苧環の語があるように、しづ(賎)の人間、つまり貧しい者も身分の高い者も、今はみな老いを迎えているが、かつてはそれぞれに盛りの時期があったのですよ、という意味だろうか。

ここでは「いにしへの倭文の苧環」は、「倭文(しづ)」が「賎(しづ)」と同音であるので「賎」に対する掛詞になっている。

しかもこの歌は、冒頭に「いにしへの倭文の苧環」を置くことによって、高貴な身分への憧れより、庶民の暮らしへの共感を全面に出している。

 

「倭文(しづ)」とはすでに書いているように織物のことだが、古墳時代のころまでは上等な布とされ、天皇もふだん使うような織物だったといわれる。ところが飛鳥・奈良時代になって中国から錦や絹などが入ってくると、「倭文(しづ)」は一段低いありふれたものと見なされるようになって、「万葉集」のころには古くさくて質素なものとされていたようだ。

もともと古代において「布」とは、麻または紵(ヤブマオのこと)で織ったものをいっていて、のちに中国から絹織物や進化した織機や技法で織られた布や錦などが入ってくると、昔から日本で織られた布というので「倭文」と呼ばれるようになった経緯もある。

「しづ(賎)」の掛詞として「倭文(しづ)」が使われるようになったのも、単に「しづ」と「しづ」で同音というだけでなく、倭文がありふれたものになった時代になったゆえをもって、「しづ」に「賎」をあてたのではないだろうか。

しかし、「古今和歌集」の作者は「賎(しづ)」を単に「いやしき」ものとは捉えていない。貧しき者も身分の高い者も、かつては同じように盛りの時期があったと同等に捉えている。

そこには、ビルが建ち並び便利な都会で暮らす現代人が、一見貧しい暮らしに見える里山の風景を懐かしむように、「古今和歌集」の平安時代の人々も、庶民たちが日常で着る衣服を織り上げる姿を、貧しさよりも懐かしさとして見ているからではないだろうか。

 

きのうの芝居を見て、「妹背山・・・」はまさしく「古今和歌集」の歌の世界だと思った。

鎌足の家来、金輪五郎に腹を刺されたお三輪は、ますます逆上して嫉妬に狂うが、そうした女の生き血こそが入鹿をやっつけるリーサルウェポンというので、金輪五郎はこういってお三輪を褒めたたえる。

「女、喜べ。それでこそあっぱれな高家の北の方。汝が命を捨てることによって、思うお方(藤原淡海)の手柄となり、入鹿を滅ぼすことになる」

するとお三輪「何と、賤しいこの身を北の方とは」。

ちなみに「高家」とは家柄や身分が高い家のことで、「北の方」とは貴人の妻を敬っていう言葉。お三輪は、嫉妬に狂って死ぬことによって、この世の縁は薄くとも、愛しい人と未来で添えるというわけなのだ。

あっぱれな行いをすれば、命を失ったとしても高貴な人間になれる、つまり本来、人間には貴賎の差などないということをいってるように聞こえる。

お三輪の、いまわの際のセリフ。

「冥加なや、もったいなや、いかなる縁で賤の女が、そうしたお方としばしでも枕交わし身の果報、あなたのためになることなら、死んでもうれしい・・・」

そうはいっても、生きていてこその人の愛。やっぱり恋しい、生きているうちにもう一度会いたい、とつぶやき、苧環を抱きしめたまま死んでいく。

 

文楽の「妹背山・・・」のクライマックスは、鎌足が鎌で入鹿の首を掻き切ると、「首はそのまま虚空にあがり、火焔をくわっと吐きかけ吐きかけ、飛鳥(ひちょう)の如く駆けまわる、一念のほどぞ恐ろしき」と首が飛ぶシーンがすさまじい。さすがに歌舞伎はそうはいかず、何人かの郎党が出てきて死んだ入鹿を担いで舞台から去っていった。