善福寺公園めぐり

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映画「MINAMATA」とユージン・スミス

民放のBSで放送していたアメリカ映画「MINAMATA-ミナマタ-」を観る。

2021年公開の作品。

監督アンドリュー・レヴィタス、出演ジョニー・デップビル・ナイ真田広之國村隼、美波、加瀬亮浅野忠信ほか。

水俣病を世界に伝えた写真家ユージン・スミスと妻だったアイリーン・美緒子・スミスの写真集「MINAMATA」を題材に描いたドラマ。ジョニー・デップユージン・スミスを演じるとともに製作にも加わり、音楽は坂本龍一

 

1971年、ニューヨーク。アメリカを代表する写真家の一人と称えられたユージン・スミスジョニー・デップ)。今では、かつての栄光も遠のいて酒に溺れて荒れ気味の日々を送っていた。

ある日彼は、CM撮影の仕事で彼のもとを訪れた日系の女性アイリーン(美波)から、ぜひ日本に来て水俣病に苦しむ人々の姿を撮影し、その惨状を世界に伝えてほしいと懇願される。かくしてスミスは熊本県水俣市にやって来るが、そこで彼が目の当たりにしたのは、しゃべることも身動きすることもままならない患者たちの姿だった・・・。

 

この映画がいいたかったこと、それは「水俣病は終わっていない」ということであり、公害は一度起こせばたくさんの一般市民の命を、人生を奪い、何十年、何百年にわたって人々を苛んでいく、ということだろう。

映画は史実と違うところもあるみたいだったが、1956年に公害企業の水銀垂れ流しによる水俣病が公式確認され、それから60年以上がたっても、いまだ多くの被害者が病に苦しみ、救済も十分ではない現実がある。それだけでなく、今も世界のあちこちで新たな公害が引き起こされている。だからこそ、「水俣病は終わっていない」と声を上げ、被害をもう一度見つめなおすことが大切なのではないか。映画はそういっている。

ラストの字幕で、2013年に日本の首相が「日本は水銀による被害を克服した」と発言したことを紹介しているが、この首相とは、東京オリンピック招致のときにも「福島第一原発は制御下(アンダーコントロール)にある」と発言した安倍晋三氏だった。

日本政府としては、水俣病も、最大の公害といえる原発事故も、もう終わったことにして、あわよくばなかったことにしたいのだろうが、世界の人々は終わってないとちゃんと知っていて、冷徹な目で見ているよ、ということをこの映画は教えてくれる。

 

映画の主人公であるユージン・スミスは1918年アメリカ・カンザス州ウィチタ生まれ。14歳から写真を撮り始め、17歳のとき、ニューヨークで偶然出会った日系写真家の作品に感銘を受け、写真の道を志したという。

彼は日本とのかかわりが深く、太平洋戦争中には従軍カメラマンとしてサイパン、沖縄、硫黄島などの戦地で取材を重ね、沖縄戦では自らも重傷を負う。

彼が26歳のときで、日本軍の迫撃弾が炸裂して左腕を損傷し、顔面の口蓋を砕く大ケガにより、歯の噛み合わせが悪くなって十分な食事ができなくなるほどだった。以後の生活では、牛乳とオレンジジュースに生卵を混ぜた飲み物が栄養源となったという(後年、水俣で暮らすようになってからはそれにプラスして、サントリーレッドの中瓶を1日1本、ストレートでチビリチビリ飲んでいたんだとか)。

戦後は、高度成長期の「日立」のCM撮影のため1年間、日立市に滞在したりしている。

しかし、このときのスミスは日本のことがよく理解できていなくて、撮影は満足のいくものではなかったらしい。そのため、もう一度日本に行って撮影したい、できることなら日本の漁村に行きたいと思っていたそうだ。

 

彼は「ライフ」誌の仕事をしていたが、編集部と取材方針をめぐって対立して訣別。当時結婚していた妻ともうまくいかなくなって、家族を棄て、音楽家や画家たちが住むニューヨーク・マンハッタンのロフトに住むようになる。そこは連日連夜さまざまなジャズ・ミュージシャンが出入りし、ジャムセッションを繰り広げていた。

彼は、ロフトの4階にある自室の窓から、まるで定点観測のように通りを行き交う人々を撮り続けた。たしか木村伊兵衛も自宅の窓から写真を撮り続けた時期があったそうだから、写真家の発想には共通するところがあるのか。

夜になると今度はジャムセッションを録音し、写真を撮った。そうやってすごした8年間で彼は、およそ4000時間に及ぶジャムセッションの録音と40万枚の写真を残したという。

映画でもジョニー・デップが暗室の中でのスミスの作業を再現していたが、1枚の作品のために妥協を許さず、命を削るように仕事をするのがスミスのスタイルで、撮影したフィルムはあくまでデッサンであり、暗室に何日も徹夜でこもり、より完成度の高いプリントにしていったそうだ。当時は写真といえばモノクロ。それゆえに手作業ができる暗室こそが作品完成の場だったのだろう。

 

ロフト時代に出会ったのが、日本人の母とアメリカ人の父をもつアイリーンだった。彼女はカリフォルニアにあるスタンフォード大学の学生で、富士フイルムのCMでインタビューされたスミスの通訳を務めた。彼女は20歳で彼は51歳。彼はアイリーンと出会った1週間後に、自分のアシスタントとなりニューヨークで一緒に暮らしてほしいと頼む。

父親より年上の男からの申し出に戸惑ったアイリーンだったが、結局、承諾してそのまま大学を中退。彼と暮らし始める。

史実では、2人が一緒になってから訪れたのが水俣だった。

水俣での彼の最高傑作といえるのが、水俣病を象徴する写真「入浴する智子と母」だ。

社会の不平等を訴える写真を撮り続けるスミスだったが、彼は人間の日々の営みや気高さに強い眼差しを向けた。アイリーンとともに水俣病の患者やその家族に接して親密な関係を築きながらカメラを向けていき、胎児性水俣病患者で当時15歳の上村智子さんと出会う。彼女は母親の胎盤を通して有機水銀に汚染され、生まれたときから肢体不自由で目が見えず、口も利けなかった。

お母さんは「智子が私の食べた魚の水銀を全部吸い取って、一人で背負ってくれた。だから智子はわが家の宝子(たからご)ですたい」と語っていたという。

スミスは、お母さんに、智子さんを入浴させるシーンを撮影したいと申し出て、1971年12月、上村さん宅を訪れ、お母さんが智子さんを抱いて浴槽に入るシーンを撮影した。

シャッターを押すとき、スミスは思わずつぶやいた。

「美しい」

この写真は1972年、「ライフ」誌に掲載され、神秘的な美しさと被害の悲惨さを伝える作品として世界に知られるようになる。

しかし、智子さんは撮影から6年後の1977年12月、21歳の若さで亡くなった。

 

スミスもまた、1972年1月に千葉県市原市チッソ五井工場での水俣病患者と企業側との衝突に巻き込まれ、コンクリートに頭を叩きつけられて失明の危機にさらされるほどのケガを負う。後遺症により激しい頭痛にも見舞われるようになったという。

このときのケガが遠因になったのか、1975年にアイリーンとの連名による写真集「MINAMATA」をアメリカで出版し、翌年、ロバート・キャパ賞を受賞するも、1977年末、脳溢血の発作で倒れる。1978年10月、再び脳溢血の発作を起こし、59歳で亡くなる。

写真集「MINAMATA」が彼の遺作となった。

写真集に彼は次の言葉を残している。

「写真はせいぜい小さな声にすぎないが、ときたま――ほんのときたま――一枚の写真、あるいは、ひと組の写真がわれわれの意識を呼び覚すことができる」

「私は写真を信じている。もし充分に熟成されていれば、写真はときには物を言う。それが私――そしてアイリーン――が水俣で写真をとる理由である」