善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

無言館・藤森建築群・諏訪大社を巡る旅

秋晴れの1日、信州へドライブ。

むろん運転は上手な人に任せて、後部座席でのほほんとしてただけ。

本日は、前々からぜひとも行きたいと思っていた長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」を訪ね、紅葉がはじまった茅野市の御射鹿池(みしゃかいけ)、同じ茅野市の建築家・藤森照信設計の建築群を見て回る予定。

 

早朝6時出発で、関越から上信越自動車道を経由して上田市に向かう。

佐久平のあたりを雲海が覆っていた。

 

前方でも霧が発生していて、その後方の雪を頂いているのは北アルプスの山々だろうか。

 

9時半すぎに無言館に到着。

第二次世界大戦で犠牲となった戦没画学生の作品を収蔵・公開している施設だ。

1997年、著作家美術評論家窪島誠一郎氏が館主となってオープン。

最初は自身が経営していた美術館「信濃デッサン館」の分館として開館した。自らも出征経験を持つ画家の野見山暁治とともに全国を回り、戦没画学生の遺族を訪ねて遺作を提供してもらったという。

1点1点の作品をじっくり見て回る。

芸術への志半ばにして戦地に向かわざるをえなかった若者たちの無念さとともに、彼らの魂の叫びともいえる遺作が、静かに見る者に語りかけてくる。

わかっている限りでの最期の状況、生前の手紙などの資料もあわせて示されていて、彼らの心底からの無念が1つ1つの作品から浮かび上がってくるようだ。

 

入口に掲げられた窪島誠一郎氏のあいさつが胸を打つ。

 

あなたを知らない

遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのはあなたが遺したたった一枚の絵だ

あなたの絵は朱い血の色にそまっているが
それは人の身体を流れる血ではなく
あなたが別れた祖国のあのふるさとの夕灼け色
あなたの胸をそめている父や母の愛の色だ

どうか恨まないでほしい
どうか咽かないでほしい
愚かな私たちがあなたがあれほど私たちに告げたかった言葉に
今ようやく五十年も経ってたどりついたことを

どうか許してほしい
五十年を生きた私たちのだれもが
これまで一度として
あなたの絵のせつない叫びに耳を傾けなかったことを

遠い見知らぬ異国で死んだ画学生よ
私はあなたを知らない
知っているのはあなたが遺したたった一枚の絵だ
その絵に刻まれたかけがえのないあなたの生命の時間だけだ

 

1997・5・2 「無言館」開館の日に

 

戦没画学生の遺作、遺品を保存・修復する施設「時の庫(くら)」。

傷ついた画布、焼け焦げたスケッチ帳などを修復し、もう一度よみがえらせる努力が行われているという。

 

第二展示館「傷ついた画布のドーム」。

開館時は37人、作品数約80点だったが、現在は約130人の作品が収蔵されているという。

 

次の目的地、茅野市の御射鹿池(みしゃかいけ)に向かう途中、「新そば」の張り紙を見て「信州・立岩和紙の里」というそば屋で舞茸天ぷらともりそば。

100%地元産のそば粉を使ったそばだそうで、もうちょっと季節が早いと「朝採れアスパラの天ぷら」も食べられたようで、残念。

「だったんそば」も地元・長和町の特産品だとか。

隣では300年の歴史を持つ立岩和紙の紙漉実演と和紙製品も販売を行っているという。

 

そば屋を出て、ビーナスラインを走っていくと、標高1400mのところにある白樺湖

まわりには雪を頂く山々。

 

白樺湖から2、30分のところにあるのが、御射鹿池という標高1500mの山の中にあるため池。

どこかで見たことのある風景だなと思ったら、日本画家の東山魁夷が描く風景画とそっくり。実は、彼がこよなく愛し、作品のモチーフにしたのがこの池だった。

農業用につくられたため池で、冷たすぎる八ヶ岳の水を、お日さまに当てて稲作に利用するため昭和の初めにつくられたというが、静かな水面に背景の山々の風景が映り込み、幻想的な光景をつくり出している。

御射鹿池の名は、近くの諏訪大社に伝わる神に捧げるための鹿を射る神事「御射山御狩神事」に由来するといわれていて、かつてこのあたりは諏訪大明神が狩りをする「神野」と呼ばれる神聖な場所だったといわれている。

池のほとりではアカトンボが翅を休めていた。

 

御射鹿池から西へ30分ほど、茅野市宮川のあたりに建築家の藤森照信氏が設計した建物が点在しているというので行ってみる。

藤森氏は以前は建築史家として知っていて、「建築探偵」「路上観察学会」などでお名前を聞いていたが、建築家としても活躍していて、茅野市宮川にある「茅野市神長官守矢史料館(ちのしじんちょうかんもりやしりょうかん)」は藤森氏の建築家としてのデビュー作という。

茅野市神長官守矢史料館とは、古代から明治のはじめまで、諏訪大社を構成する上社(かみしゃ)の神官の1つで、神事を取り仕切る五官のうちの筆頭である神長官を代々つとめてきた守矢氏に関する史料を保存・公開する施設。

ちなみに諏訪大社は全国に2万5000カ所をある諏訪神社の総本社で、6年に1度(7年目に1度)催される御柱祭で知られる。

藤森氏は茅野市のこのあたりの出身で、78代当主守矢早苗氏とは幼馴染みの関係にあったという。茅野市役所が藤森に設計を依頼し、1991年に竣工・開館したのがこの史料館。

史料館に向かう途中、敷地内にあった守矢氏の住居らしい建物の入口の家紋が「丸に十字」だったのが興味深かった。

「丸に十字」といえば九州の島津家の家紋でも知られるが、島津家と何か因縁があるのかなとフト気になった。

 

さて、いよいよ史料館だが、自然素材を大胆に使ったという外観を見て、思わず、フランスを旅したときに見た、フランス東部のロンシャンにあるル・コルビュジエ設計の礼拝堂を連想した。

素材もフォルムも違うが、きっと藤森氏のイメージの中にはあのロンシャンの礼拝堂があったに違いない。

うしろからみたところ。まさしくコルビュジエだ。

そして、屋根から突き出ている4本の柱。諏訪大社御柱のようにそそり立っている。

諏訪大社御柱は、7年目ごとに新しい柱が立てられる。山中から16本のモミの大木を切り出して、上社本宮、前宮、下社秋宮・春宮まで曳行し、各4本ずつ、それぞれの社殿の四方に立ててご神木とする。坂の上から急坂を下る木落としは有名だ。

史料館の屋根を突き出て伸びる大木は諏訪地方ではミネゾウ、一般的な和名ではイチイの木で地元産。まるで天と交信でもするようにそそり立っていた。

外壁は、サワラの割り板と、ワラを色つきモルタルに混ぜて塗り、投げ、表面を荒らしたあと、上から土をスプレーで吹きつけて“毛深い”仕上げにしたという。

屋根は上諏訪産の鉄平石で葺いてある。

こうして見た目は天然素材でつくられているが、実際は鉄筋コンクリートづくりで、近代的な材料を自然素材で包み込んだ建物という。

 

史料館では、諏訪上社で行われた神事の供物や、古文書などが展示されてあった。

諏訪上社の神事は、鹿の首75頭を供えた神事だったという。

さきほど行った御射鹿池あたりで捕らえた鹿だったのだろうか。

神事の様子を撮影した写真が展示されてあった。

 

史料館と地続きのすぐそばに藤森家の畑があり、そこに藤森氏設計の建築群があるというので見に行く。

 

途中、何本もの柱が立っていた。

本当に、このへんの人たちは柱が好き、というより柱に神聖なものを感じているようだ。

小さな祠の四方にも立派な柱。

小銭やお酒に混じって栗のお供え。

少し離れた、高いところからみた史料館。

後ろの山々と見事に調和している。

 

ここにも太い木の柱が並んでいる。

お墓もまるで柱のようだ。

そこでまたまた連想したのは、ヨーロッパの古代遺跡で見るメンヒルだ。ヨーロッパの先史時代に立てられた直立した石のことをいう。

何のために立てられたかといえば、太陽信仰と深く関わりがあるに違いない。

柱のような石のモニュメントにはオベリスクもある。これもやはり起源は太陽信仰にもとづくものといわれ、古代エジプトオベリスクが有名だ。

諏訪大社御柱もひょっとして太陽信仰と関係があるのではないか?

 

それはともかく、藤森氏設計の建築群はというと・・・、

何と、メルヘンの世界が広がっていた。

まず目に飛び込んできたのが「空飛ぶ泥舟」。

2010年に茅野市美術館で開催された「藤森照信展」の展示のために設計し、市民とのワークショップで制作したという。

もともと茅野市美術館の庭にあったが、会期終了後にここに移築された。

吊り構造によって宙に浮いた状態になっていて、ハシゴをかけてのぼっていくのだろうが、中に入ってユラユラと揺れるのを楽しむのだろうか。

「空飛ぶ泥舟」のとなりにあるのが「高過庵(たかすぎあん)」。

2004年に竣工したもので、ツリーハウスのように見えるがそうではなく、近くの山からクリの木を2本、切り出してきて、それを柱として立てている。

ここにも御柱があった。

やはりハシゴをかけてのぼっていくのだろう。

 

「高過庵」があるのなら低いのも、とつくられたのが「低過庵(ひくすぎあん)」。

これも茅野市が企画した市民参加のワークショップで制作したというが、地面に埋まっているように見える。

外壁に用いられているのは焼き杉。杉材の表面を焼いて炭化させたもので、表面の炭化層が板の劣化を防ぎ、耐火性を高める効果がある。

 

史料館前の道路沿いにある「高部公民館」も藤森氏の設計。

もともとあった公民館の建て替えによりつくられ、2021年6月に竣工。

地元の人たちも参加してつくられ、外壁の焼き杉は男性が、室内の照明器具は女性が担当したとか。

屋根から突き出す柱は地元のヒノキという。

 

そこから少し離れたところにあるのは、藤森氏設計の茶室「五庵」。

昨年の東京オリンピックに合わせて東京・新宿区の新国立競技場前につくられたもので、五輪ならぬ五庵。

それをふるさとの地に再建築したもので、巨石の上の4本の柱に支えられている。高さ6mあり、茶室の窓からは八ケ岳連峰を望めるという。

道祖神も柱に見える。

 

続いて訪れたのは、茅野市神長官守矢史料館から車で数分のところにある諏訪大社本宮。

7年目に1度の御柱祭は今年4~6月に行われ、新しい御柱が立てられた。

入口近くに本宮一之御柱がそそり立っていた。

なぜ御柱なのか。

諏訪大社の特徴は、諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がなく、代わりに、下社秋宮はイチイの木を、春宮はスギの木を御神木とし、上社本宮は御山を御神体として拝しているのだという。

そもそも古代の神社には社殿などなかったという。

以前、世界遺産となったというので行った九州の宗像大社も、最初のころは社殿を有していなくて、小高い丘の上が祭場になっていて、その跡が残っていた。

神宿る島とされる沖ノ島でも、もともとの祈りの場は大きな岩の上で、太陽を崇拝する自然信仰が本来の祈りの形だったのだろう。

山や木が御神体であり御神木ということは、本来、神さまとは自然そのものだったということにほかならない。

 

楽殿にあった巨大な太鼓。

「牛の一枚革では日本一」といわれ、元日の朝のみ打たれるという。

 

帰りは中央自動車道で東京に向かう。

もう5時すぎだが、前方に富士山。

談合坂サービスエリアで夕食。

甲州名物ほうとうがメインのゆるり庵御膳をいただく。

夜8時半すぎに帰着。

車に乗ってる時間も含めて14時間ちょっとの“小さな旅”だったが、たくさん学び、楽しんだ1日だった。