善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「椿井文書―日本最大級の偽文書」が問うもの

馬部(ばべ)隆弘著「椿井文書(つばいもんじょ)―日本最大級の偽文書(ぎもんじょ)」(中公新書)を読む。

 

著者は気鋭の日本中世史・近世史の研究家で現在大阪大谷大学文学部准教授。

本書の扉にこう書かれてある。

「中世の地図、失われた大伽藍や城の絵図、合戦に参陣した武将のリスト、家系図......。これらは貴重な史料であり、学校教材や市町村史にも活用されてきた。しかし、もしそれが後世の偽文書だったら? しかも、たった一人の人物によって創られたものだとしたら――。椿井政隆(1770~1837)が創り、近畿一円に流布し、現在も影響を与え続ける数百点にも及ぶ偽文書。本書はその全貌に迫る衝撃の一冊である」

 

たしかに衝撃的な内容だった。

たとえば、大阪枚方市東部の津田山周辺地域とその山頂にあり、今は城跡(とされるもの)しか残っていない津田城。地元自治体がつくった「津田史」や「枚方市史」などによれば津田城は旧来の領主を駆逐した津田周防守政信によって延徳2年(1490年)に築かれたとされるが、津田城も城主の津田周防守政信もいずれも実在しない城であり人物だというのだから驚きだ。

椿井政隆がどういう人だったかというと、江戸時代後期、現在の京都府木津川市山城町椿井を出自とし、国学兵学有職故実本草学などにも通じた人だったらしい。

彼が67歳で亡くなった1837年は大阪で大塩平八郎の乱が起こっていて、江戸幕府も末期の様相を呈したころ。

そんなころに“活躍”した椿井政隆が偽作した古文書類のことを椿井文書(つばいもんじょ)と呼んでいて、実際には彼の手により江戸時代後期に作成されているのに中世のものという体裁をとるなど巧みにつくられているため、近畿地方一円に正しい古文書として広まってしまったようだ。

しかも、現在にあっても古文書として当たり前のように使っている学者もいるという。近畿一円に偽文書が分布したというだけでなく、それによって地域の歴史がゆがめられている事実もあり、その意味においても日本最大級の偽文書といっても過言ではないかもしれない。

 

ただし、ウデに自信のある贋作家とは得てしてそうなのかもしれないが、椿井政隆には空想を楽しんでいるというか、遊び心もあったようで、自己満足のために作成したものも少なくないという。

また、彼が偽作した文書の中にはわざと年号を間違えたと思われるものもあり、あとでニセとわかって「間違えました」ですませるように、逃げ道もつくっていたみたいだ。

それにしても、なぜこれほどまでに偽文書が人々に受け入れられたのか。

そこには、自分の村や町を立派に見せたい、自分の出自を立派に見せたいといった「かくあってほしい」という願望が根底にあったからではないか、と馬部氏は述べている。

 

政治的に利用された面もあったようだ。

椿井文書は、明治期以降も爆発的に広がっていった。なぜかというと、明治維新後の国家神道化の流れの中で神社の社格が重視されるようになると、その土地の人々の願望にもとづいて偽作された椿井文書がますます利用されるようになったからだという。

 

そういえば、偽文書の研究といえば歴史学者網野善彦氏の「日本中世の非農業民と天皇」という著書を思い出す。

同書の中で網野氏は、戦国期から江戸時期にかけて偽文書が多くつくられ、その中でも各種の手工業者・商人から芸能民までを広く含む「職人」が、生業に関わる特権と職能の由来を正当化するために偽文書を作成し、社会の中で効用を果たしていっているが、それは天皇と無関係ではないと書いている。

 

南北朝の動乱を通じて、室町期以降、天皇の権力はほとんど失われ、権威も著しく低下していった。その結果、天皇の下にあって、聖なる集団としての特権を持っていた「職人」集団の立場にも計り知れない影響が及んだ。

網野氏は、「職人」集団のうち鋳物師(いもじ)が持つ「蔵人所牒」などの偽文書が、その特権や職能の由緒を権威づけるためにつくられたことを明らかにした。

偽文書を作成したのは諸国の鋳物師を統括する下級官人の真継(まつぐ)家で、偽文書には「御名御璽」の朱印が押されている。「天皇自身がこの文書偽造の共犯者であったことはまず疑いない、ということになろう」(同書524ページ)と網野氏は述べている。

とするとやはり、自らの権威づけのため「かくあってほしい」という願望こそが、偽文書がつくられる一番の理由なのかもしれない。

 

そういえば今の政府だって、自分たちの都合のいいように公文書を偽造して平気でいるなー。

偽文書を用いて人を欺く罪のことを謀書・謀判といって、鎌倉幕府が定めた「御成敗式目」では、その罪を犯した者は侍なら所領没収、凡下(侍以外の者)なら顔に火印を押す、江戸時代の「公事方御定書」では強盗殺人と同じ扱いで、死刑(市中引き回しのうえ獄門)と規定されているのだが。