土曜日の6日午後は、南荻窪在住の長谷川雅也さん主宰の「杉並お散歩会」のお散歩に参加。
今回は、京王井の頭線・久我山駅から出発して久我山稲荷神社、世田谷区の烏山寺町のお寺めぐりのあと再び久我山駅に戻るコース。
今回は、京王井の頭線・久我山駅から出発して久我山稲荷神社、世田谷区の烏山寺町のお寺めぐりのあと再び久我山駅に戻るコース。
久我山稲荷神社はちょうど翌日が例大祭というので準備の真っ最中だった。
その後は玉川上水に架かる「兵庫橋」を渡って南へ。
兵庫橋の名は小田原北条氏の家臣でこの地に土着した大熊兵庫が架橋したことに因むという。
そういえばこのあたりは、秦姓、大熊姓が多いんだとか。
その後は玉川上水に架かる「兵庫橋」を渡って南へ。
兵庫橋の名は小田原北条氏の家臣でこの地に土着した大熊兵庫が架橋したことに因むという。
そういえばこのあたりは、秦姓、大熊姓が多いんだとか。
その1つ、高源院というお寺の境内には大きな池があって、まるで別世界。
コイよりカメが多い感じ。
冬になると渡り鳥のカモが飛来するという。
紅葉のころは美しいんじゃないか。
コイよりカメが多い感じ。
冬になると渡り鳥のカモが飛来するという。
紅葉のころは美しいんじゃないか。
専光院には江戸時代の浮世絵師である喜多川歌麿の墓があり、「歌麿寺」の通称でも知られるという。
創建は江戸時代初期で、もともと品川にあったが馬喰町に移転し、1657年(明暦3年)の明暦の大火で浅草に移転。その後、関東大震災によって被災し、歌麿の墓ともども現在地に移ってきたという。
創建は江戸時代初期で、もともと品川にあったが馬喰町に移転し、1657年(明暦3年)の明暦の大火で浅草に移転。その後、関東大震災によって被災し、歌麿の墓ともども現在地に移ってきたという。
称往院境内にあった「そば禁制」の碑。
慶長年間に湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により当地に移転した。
浅草のころ、庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られていたが、あんまりにも有名になって修行の妨げになるとして天明6年(1786)「そば禁制」の碑が建てられたという。
暗くてよく分からないが「不許蕎麦入境内」と刻まれている。
慶長年間に湯島に創建されたが、明暦の大火で浅草に、さらに関東大震災により当地に移転した。
浅草のころ、庵主のつくるそばが有名となり「そば切り寺」として知られていたが、あんまりにも有名になって修行の妨げになるとして天明6年(1786)「そば禁制」の碑が建てられたという。
暗くてよく分からないが「不許蕎麦入境内」と刻まれている。
存明寺にあったゾウの彫刻。
そっくり返っているように見える狛犬、というより狛獅子。
タヌキの置物がズラリと並んでいるお寺もあった。
ふたたび杉並区に戻って、久我山1丁目にある安永5年(1776)銘の庚申塔と享保15年(1730)銘の観音塔。
杉並区内には庚申塔が多いというが、庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったといわれる。それが日本に伝わって中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まっていった。
この庚申塔は道標としての役割も持っていて、「右井ノ頭道」「左ふちう道」と刻まれている。
それぞれ別の場所にあったものが、ここに安置されたという。
そっくり返っているように見える狛犬、というより狛獅子。
タヌキの置物がズラリと並んでいるお寺もあった。
ふたたび杉並区に戻って、久我山1丁目にある安永5年(1776)銘の庚申塔と享保15年(1730)銘の観音塔。
杉並区内には庚申塔が多いというが、庚申信仰は「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったといわれる。それが日本に伝わって中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間に広まっていった。
この庚申塔は道標としての役割も持っていて、「右井ノ頭道」「左ふちう道」と刻まれている。
それぞれ別の場所にあったものが、ここに安置されたという。
久我山駅から続く商店街の道と玉川上水とが交差する岩崎橋のあたりには、玉川上水から分水する川の流れの取水口がある。
江戸に飲み水を供給するためにつくられた玉川上水は武蔵野台地の峰筋を通っていたので、何本もの分水路を持つことが容易にできたという。
江戸に飲み水を供給するためにつくられた玉川上水は武蔵野台地の峰筋を通っていたので、何本もの分水路を持つことが容易にできたという。