土曜日の27日は杉並区在住の長谷川まさやさん主宰の「杉並お散歩会」に参加。
コロナ禍で21カ月ぶりの開催だそうで、京王井の頭線高井戸駅を午前10時半出発して昼食を挟んで荻窪駅着は午後2時半のコースをお散歩。快晴の天気にめぐまれ参加者は15名。
佃とは、中世日本の荘園公領制における荘園領主や荘官・地頭らによる直営田のことだそうで、新たに開墾した「作り田」が語源という。
さらに歩いていくと「杉並区立高井戸丸太緑地」(杉並区高井戸西2-17-2)。
「高井戸丸太(たかいどまるた)」って何ぞや?
実は江戸時代から大正にかけて、四谷から高井戸のこのあたりは「四谷丸太」とか「高井戸丸太」と呼ばれる良質のブランド杉の産地として知られていて、京の北山杉、和歌山の吉野杉と並んで、東の四谷・高井戸丸太と呼ばれていたという。
「武蔵野名所図会」にも、「高井戸丸太 杉の丸太なり、細きこと竹の如し。上品にて吉野丸太と同じ。江戸にて作事に用うる良材とす」と称賛されていたという。
今はそんな面影はまるでなく、「高井戸丸太緑地」という名だけが往時を偲んでいる。
さらに歩いていくと意外や意外、栗農園が広がっている。
栗がたわわに実っている。
中には枯れ木に栗のイガだけ残ったのもあるが・・・。
1・5ヘクタールの生産緑地で、以前はほかの野菜も栽培していたらしいが、20年ほど前から栗栽培に特化して今では800本もの栗の木が育ち、収穫期には6トンもの実がとれて、味も評判がいいのだとか。
散歩の途中、「木突木珈琲(キツツキコーヒー)」(高井戸西2-12-22)という自家焙煎のお店でコーヒー・タイム。
次に訪ねたのが「春日神社」(宮前3-1-2)。
奈良の春日大社の神霊を勧請し、祀っている神社。春日神社の神の使いは鹿だが、この神社も狛犬ではなく石造りの神鹿(しんろく)が守っている。
龍の向かいには・・・、
やっぱり鹿。
江戸時代初期、このあたりは幕府御用の茅刈り場だったという。茅の使途は屋根を葺くため。1590年8月(天正18年8月)の徳川家康の江戸城入城以来、地方から次々と移住してきた町人たちの家の屋根は、ほとんどが燃えやすい藁葺きか茅葺きだったという。
ところが江戸は大火事が多く、1601年12月(慶長6年閏11月2日)、江戸全市が焼亡したといわれた慶長の大火のあと、茅葺きだとすぐに燃えてしまうというので家康は屋根を茅葺きから板葺きにするよう命じた。
茅葺き屋根が禁止されたことで茅刈り場が不要になり、茅狩り場を新田として開拓。春日神社はその際に作られた新田の一つ「大宮前新田」の鎮守として勧請されたという。創建は万治年間(1658-1661年)、隣にある日蓮宗の慈宏寺と同じころといわれる。
ところで、茅葺き禁止後、江戸の町の屋根はどうなったかというと、江戸には大名屋敷もあって瓦葺きが流行し、町家でも瓦葺きの建物が増加した。しかし、瓦葺きだと火事の際に落下した瓦で怪我をする者が多かったため、明暦の大火後は瓦葺を禁じることになった。幕府はあらためて、火が移りやすい茅葺や藁葺の屋根を禁じ、板葺きにして延焼防止のため土を塗るよう命じたという。
お昼は大宮前体育館(南荻窪2-1-1)のレストランでカレーライス。
食後、体育館の屋上に出てみると、何と富士山が大きく見える。
天気がいいと遠くにあるはずの富士山も大きく見えるのだろうか?
体育館前のイチョウ。
体育館近くにミツバチを飼っているお宅があった。
与謝野寛(鉄幹)、晶子夫妻が晩年をすごした家の跡地にできた「与謝野公園」(南荻窪4-3-22)を経て、善福寺川を渡ると、橋の上からハクセイレイが見えた。
荻外荘(てきがいそう)公園(荻窪2-43)から、昭和戦前期に内閣総理大臣を務めた近衞文麿の別邸・荻外荘をのぞむ。
近衞内閣時代における重要な政治会談(荻窪会談・荻外荘会談等)や組閣の舞台となった場所として知られ、敷地全体が国の史跡に指定されている。
戦後、客間棟と玄関棟は豊島区に移築されたが、元に戻して近衞文麿居住当時の姿へ「復原・整備」する計画が進行中という。
お散歩会の終盤は荻窪駅近くにある太田黒公園(荻窪3-33-12)へ。
音楽評論家の草分け、大田黒元雄(1893~1979年)の屋敷跡地に杉並区が日本庭園を整備してオープンした公園。
ちょうど紅葉が見ごろで、土曜日とあってたくさんの人が訪れていた。
太田黒は、大森山王(現在の大田区山王)と杉並区東荻町(現在の同区荻窪)の2か所に邸宅を持ち、生前、友人知人を招いては定期的にサロンコンサートを開いていたという。
そのサロンで演奏されたことであろうピアノが残されていてた。
スタインウェイ社製で、ピアノに刻されている製造番号を頼りにニューヨークにあるスタインウェイ本社に問い合わせたところ、今から120年も前の1900年にドイツのハンブルグ工場で製造されたピアノで、同年5月26日にイギリスのロンドン支店に出荷された1台とわかったという。
太田黒邸で開かれたサロンコンサート「ピアノの夕べ」のプログラム。
1916年1月29日に開催された「ピアノの夕べ-ロシアの音楽-」のプログラムで、版画で描かれているのはカワセミのようだ。クチバシでくわえているのはカエルだろうか。
「ピアノの夕べ」は大田黒邸で1915(大正4)年から1917(大正 6)年までの間、10 回ほど行われたという。第1回は太田黒22歳のとき。当日のプログラムのデザインを担当したのが、パリに渡って銅版画家として活躍した長谷川潔(1891-1980年、当時24歳)で、長谷川は以後もプログラムのデザインを担当しているというからカワセミのデザインも長谷川によるものだろう。
暖炉の上の灯は、帆船からぶら下がっていにみたいになっている。
お散歩はその後、明治天皇が小金井にサクラを観に行く途中に立ち寄ったという「明治天皇小休所」(元は江戸時代に将軍家斉が鷹狩りのときに休憩に立ち寄った場所)を見学して、荻窪駅で解散。
楽しくて、学ぶことの多いお散歩会だった。