善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「荻外荘」内部の一般公開

東京・杉並区内の名所旧跡を歩いて訪ねる「杉並・お散歩の会」に2度目の参加。今回は、近衛文麿の旧宅である「荻外荘(てきがいそう)」見学ツアーが中心。

近衞文麿は藤原氏の流れをくむ五摂家の1つ、近衛家の30代目当主。天皇家とも遠い親戚関係にあるが、戦前、3度にわたり首相をつとめた政治家だった。
杉並区荻窪2丁目にあった荻外荘は近衛文麿の別邸であったが、彼はこの荻外荘がことのほか気に入り、一度ここに住み始めると目白にあった本邸の方へは2度と戻らなかったといわれる。
1937年(昭和12)の第1次内閣期から45年(昭和20年)12月の自決に至る期間をここですごし、昭和前期の政治の転換点となる重要な会議が数多く行われた。
彼の死後も次男がここに住んでいたが、2012年(平成24)に亡くなり、その後、杉並区が買い取って敷地の一部を荻外荘公園として整備・公開。建物は16年(平成28)に国の史跡に指定された。
建物はかなり改造され、建物の半分は豊島区に移築されたりしているが、杉並区は近衞文麿が住んでいた当時の姿の建物に復元する事業を進めていて、年に何度か、一般を対象に建物内部を特別公開する日を設けていて、その日に合わせてお散歩会が開催された。
ただし、中に入るのは先着順で、1度の入場が15人、全体の入場者数も限定されているというので、早めに行って並ぶ。

まだ工事中とのことなので、入場者はみんなヘルメット装着。
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入口近くの外から見た庭のながめ。
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客間からのながめ。荻外荘は南に傾斜する高台に建っており、窓からは善福寺川や遠く富士山がながめられたという。
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この客間で、松岡洋右外相、東條英機陸相などと日独伊三国同盟締結につながるなどの政治的に重要な会談が行われたという。
ただ、建物の内部は長年住居として使われたからだろう、住みやすいようにかなり改築されていた。

この建物はもともと1927年(昭和2)に伊東忠太の設計により大正天皇の侍医頭入沢達吉の邸宅「楓荻凹處(ふうてきおつしょ)」として創建された。
「楓荻」とはカエデとオギの意味らしいが「荻」は「テキ」とも読むそうだ。そのあとにここに住んだ近衛文麿は「楓荻」の「荻」を残して「荻外荘」と名づけた。

終戦直後、近衛文麿が自殺した部屋は当時のまま残れていた。
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近衛家の人々が「殿様の間」と呼んだ書斎で、立入禁止となっていた。
近衛文麿終戦の年の12月6日、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが最終的に決定。巣鴨拘置所に出頭を命じられた最終期限日の12月16日未明、この部屋で青酸カリを服毒して自殺した。54歳2カ月での死去は日本の総理大臣経験者ではもっとも若い没年齢という。また、総理大臣経験者として死因が自殺である人物は近衞が唯一でもあるという。

外から見た建物の外観。実は手前の空き地部分に建物の半分があり、豊島区に移築されていて、元に戻す再移築が計画されているという。
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荻外荘を出て、善福寺川沿いに歩いて荻窪駅方向に向かう。
川には、善福寺池でもよくみる野鳥たちがいた。
コサギ。首を伸ばして水を飲んでいた。
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アオサギ。仙人みたいな風貌。
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セキレイ。チョコチョコ忙しい。
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コガモ。まるで絵の具を塗ったみたいに鮮やかな色合い。
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ハトのオスとメスがスキスキしている。
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途端に交尾を始めた。
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ハトがナニするときもやはり愛撫から始まるのか?