善福寺公園めぐり

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虫たちの日本中世史 『梁塵秘抄』からの風景

植木朝子「虫たちの日本中世史 『梁塵秘抄』からの風景」(ミネルヴァ書房)を読む。

 

平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」を手がかりに、中世の人々と虫の関わりを紹介しながら虫の世界からのぞいた中世の風景を描いている。

毎日、近所の公園を散歩し、虫を愛でることを楽しみにしているだけに、題名が気に入って読了。

「私たち現代人の持つ虫への思いは、過去とどのようにつながっているのか、さまざまな文学・芸能・信仰などに現れる虫の姿に導かれながらたどる新しい日本中世史」と本の宣伝文句にある。なるほど、「虫からのぞく日本中世史」の感があっておもしろかった。

 

平安時代末期の太政大臣(つまりは当時の最高権力者)だった藤原宗輔はミツバチが大好きで、自分でもミツバチを飼っていて「蜂飼の大臣(おとど)」と呼ばれていたことは知っていたが、本書によれば、「堤中納言物語」に登場する「虫愛づる姫」は宗輔の娘の若御前をモデルにしたものではないかとする説をとりあげている。

 

とにかく本書には、カマキリ、カタツムリ、ハチ、シラミ、ムカデ、カ、キリギリス、コオロギ、イナゴ、チョウ、ホタル、トンボ、クモなどの身近な虫がとりあげられていて、当時の人々の自然との接し方だけでなく価値観とか宗教観がどういうものだったか、虫を通じてよくわかる。

 

シラミのところでこんな話があった。

室町時代後期の短編集「御伽草子」の中の「白身房」という短編に鎌倉建長寺に暮らすシラミが登場する。そのシラミは84、5歳にもなるが、僧堂の乾の角に座禅を組んで暮していた。ある日、シラミは美しい有髪の少年の行者を見初め、恋心を抑えることができず、腰のあたりに食いついたりするがすぐに払いのけられてしまう。かなわぬ恋を知り、この世の無情を感じて発心したシラミは、白身房と名乗って修行の旅に出る。途中出会った行脚の僧と仏法問答を交わし、和歌を詠み合うが、なかなか勝負がつかず、ついにシラミは僧の引導によって往生する。

このとき行脚の僧との間で詠み合った歌がおもしろい。

 

僧。

世の中の虱を食らふ物もがなわが身の痒さ思ひ知らせん

(世の中にシラミを食う物があればいいのに。人間の身の痒さを思い知らせてやりたい)

 

シラミ。

世の中に人をもひねる物もがなわが身の痛さ思い知らせん

(世の中に人をひねりつぶす物があればいいのに。シラミの身の痛さを思い知らせてやりたい)

 

僧。

虱めが盗くらひの身の果ては爪の上こそ墓どころなれ

(シラミめの盗み食いの身の果てとして、爪の上こそ墓所であるぞ)

 

シラミ。

虱ほど出家を好む物はあらじ殺されながらほつしとぞなる

(シラミほど出家を好むものはない。殺されるとき「ホッシ」と音をたてて、潰されながら法師となるのだ)

 

最後の歌がシャレていて、「ほつし」はシラミを潰す擬音語と「法師」の掛詞になっている。題名の「白身(しらみ)房」もそうだが、昔の人もダジャレ好きだったようだ。

 

チョウに対する見方が、現代と中世ではまるで違うことにも驚かされる。

本書によれば、「万葉集」にはチョウの歌が1つも詠まれてなくて、中古・中世の和歌においても、生物としてのチョウが正面から取り上げられ愛でられることはほとんどなかった、という。

なぜか。当時、チョウは不吉なものとして忌避されていたのだという。

ヒラヒラ舞ってはかなく死んでしまうチョウは死と結びついて不吉なイメージがあったのだろうか。また、幼虫から蛹、成虫へと変化していく完全変態の様子が、不気味なもの、不吉なものと感じられたのだろうか。

 

その話で思い出したのが、2年前にフランスを旅してルーヴル美術館で見たピサネロの「エステ家の公女」(1935~1440年ごろ)だった。

憂いを含んだ公女を横から見た姿が描かれた肖像画で、まわりを花とともにチョウが舞っている。どう見ても明るい絵ではなかった。

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それもそのはずで、中世のヨーロッパにあってもチョウは死の象徴と見なされていて、不吉なものとされていたという。

ヨーロッパでも日本でも、チョウに対して同じようなとらえ方をしていたというのが興味深いが、なぜそんな絵をピサネロが描いたのかは明らかとなっていない。

 

しかし、いろんな資料から推測はできる。

モデルが誰であるかは特定されていないが、明治時代にヨーロッパに留学し、ルーヴルでこの絵を模写した藤島武二は、「ジネヴラ・デステの肖像の模写」としている(作品は鹿児島市立美術館に所蔵されている)。

ジネヴラ・デステ(1419~1440年)はイタリア・リミニの領主であったシジスモンド・パンドルフォ・マラテスタ(1417~1468年)の妻。彼は屈強な傭兵軍隊を編成し、教皇庁でさえも恐れた独裁君主であり、妻のジネヴラ・デステは1433年にシジスモンド・マラテスタと結婚。彼女がまだ15歳ぐらいのころだ。

ということは「エステ家の公女」は結婚後に描かれたことになるが、この絵が描かれたころ、ピサネロはリミニから目と鼻の先のフェラーラに滞在していたというから、リミニのお城に招かれて描いたのだろうか。

ところが、ジネヴラ・デステは22歳のとき、夫の手で毒殺されたという。

とするとこの絵が描かれたとき、彼女は・・・・?

そもそもなぜ絵の題は「エステ家の公女」なのか?

やっぱり不吉の影が漂っている。

 

だいぶ話がズレちゃって申し訳ないが、本書によれば、チョウは二面性を持っていたという。

チョウは翅を持っていて飛ぶという性質から異界と往来するものとみなされ、蛹化と羽化を経る生態から再生・復活の象徴ともされた、として筆者はこう述べている。

「現実的な福をもたらすものとしてもてはやされることもあれば、成仏の徴と把握され、物事の本質を悟らせるものと捉えられることもあた。神秘の蝶は、こうしたさまざまなに二面性を持ってひらひらと舞い遊んでいるのである」

 

植木朝子(ともこ)さんは同志社大学教授で、専門は中世歌謡だが、そこを起点に古代から近現代に至るまで幅広く論考していて、2020年4月、同大初の女性学長に就任したという。