善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

「ヒガンバナ」と「シーレー」

公園のあちこちで咲いているヒガンバナについて紹介したら、本投稿を読んだ方からコメントをいただき、興味深いことを教えてもらった。

「高知弁ではヒガンバナのことを『シーレー』と言うそうです」というのである。

なぬ?シーレー? 一瞬、オーストリアの画家、エゴン・シーレが頭をよぎったが、「シーレー」とは「死霊」のナマった言い方だろうか?と思い直した。

日本の植物学の泰斗である牧野富太郎も「植物知識」という著作の中で次のように書いている。

「眼につく草であるゆえに、諸国で何十もの方言がある。その中にはシビトバナ、ジゴクバナ、キツネバナ、キツネノタイマツ、キツネノシリヌグイ、ステゴグサ、シタマガリ、シタコジケ、テクサリバナ、ユウレイバナ、ハヌケグサ、ヤクビョウバナなどのいやな名もあるが、またハミズハナミズ、ノダイマツ、カエンソウなどの雅びな名もある」

 

熊本市にある熊本国府高等学校のPC同好会がヒガンバナについてのサイトを開設していて、それによるとヒガンバナの別名(方言)は全国に1023もあるという(2010年3月現在)が、その中に、たしかに「シーレー」もあった。

 

日本国語大辞典」を調べると、「しれい」という項目がある。

「方言」とあって、1つには「死霊」か、との注釈がつけられてヒガンバナを指す言葉としている。

この辞典によれば高知県では「しいれい」と言っていて、「シーレー」と同じだろう。

しかし、こう呼ぶのは高知だけではなく、神奈川県津久井郡静岡県賀茂郡徳島県那賀郡、同海部郡、高知県安芸郡では「しいれ」と言っている。

ほかに、やはり高知県海部郡や高知県では「しれ」、高知県安芸郡では「しで」、熱海や伊豆、徳島県美馬郡高知県香美郡では「しろい」、島根県隠岐島では「しろえ」、伊勢では「しろり」と呼んでいるという。

 

なぜかこのような呼び方が海の近くとか西日本に多いのが気になる。

 

なぜ「シーレー」とか「しいれ」とか「死霊」を連想させる不吉な呼ばれ方をするかといえば、その大きな理由は秋の彼岸のころに一斉に咲くことに由来するだろう。

春と秋の彼岸は、春分の日秋分の日と重なるからもともとは太陽信仰と関係していると思われるが、仏教では「向こう岸」を意味する言葉となっている。煩悩と迷いの世界であるこちら側の岸つまり「此岸(しがん)」にある者が、「悟りの世界」である「彼岸(ひがん)」に到達するため、仏教の教えを守り、行いを慎む日であり、一般庶民にとっては墓参りなどをする年中行事として定着していった。

先祖の霊が帰ってくるのはお盆のころだから、彼岸に幽霊があらわれることはないはずだが、お墓参りに行くとなると、どうしても死んだ人を連想してしまう。

それにヒガンバナは、かつては土葬した墓をモグラや野ネズミなどから守るため墓地に植えられることが多かったから、余計に死者をイメージしてしまい、「死人花(しびとばな)」「幽霊花(ゆうれいばな)」「地獄花(じごくばな)」などとちょっと怖い名前で呼ばれたりして、それが「シーレー」ともなっていったのだろう。

 

そういえばNHKの朝の連続テレビ小説ゲゲゲの女房」の最終回で、一面のヒガンバナが咲くシーンがあって、「ヒガンバナが咲くころに死んだ者は、ご先祖さまに守られながらあの世に行くんだよ」というようなセリフがあった。

 

ヒガンバナで思い出すのは「花さき山」という絵本だ。

斎藤隆介作、滝平二郎絵による絵本だが、あの絵本に描かれていたのはヒガンバナに違いない。

あやという女の子が主人公で、山菜を採りに山に入っていくと山姥に出会う。山にはきれいな花が咲いていて、その花を指差して山姥はこう言うのだ。

「この花が、なして こんなに きれいだか、なして こうして さくのだか、そのわけを、あや、おまえは しらねえべ。

この花は、ふもとの 村のにんげんが、やさしいことを ひとつすると ひとつさく。あや、おまえの あしもとにさいている 赤い花、それは おまえが きのう さかせた 花だ」