善福寺公園めぐり

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ブレヒト『アンティゴネ』と現代日本の悲劇

ブレヒト作『アンティゴネ』の新訳が出たというので読む。光文社古典新訳文庫版で谷川道子(東京外大名誉教授)訳。
ブレヒトの訳者としては岩淵達治が有名だが、それと比べてどうかわったかは、岩淵訳も含めて旧訳をまるで読んでないので不明。
ともかく読んで思った。これは現代日本の悲劇を描いている!と。

紀元前442年ごろのソポクレスによるギリシャ悲劇『アンティゴネ』をブレヒトブレヒト流に解釈して書いた戯曲(ソポクレス原作・詩人ヘルダーリン訳による舞台用改作、とブレヒト自身の注釈にある)。

オイディプスの娘でテーバイの王女であるアンティゴネを題材としていて、王権を継承しテーバイの支配者となった王クレオンが仕掛けた侵略戦争により、戦場から逃亡し殺されたポリュネイケスを「卑怯者」としてクレオンは彼の屍を葬ることを禁じる。しかし、ポリュネイケスの妹・アンティゴネはその禁を破って兄を弔い、伯父でもあるクレオンに抵抗するが・・・。

冒頭のプロローグでブレヒトが「どうか皆さん、最近、似たような行為が私たちにあったのではないか、いや、似たような行為はなかったのではないかと心の中をじっくりさぐって頂きたい」とあるように、ギリシャ悲劇を題材にしながら今日的問題を問いかける作品となっている。

ブレヒトが描くのは王や王女らによる骨肉の争いの末の悲劇ではない。独裁者クレオンによって国が滅びる悲劇であり、それに加担する日和見的な長老たちや、ウソの情報に操られ踊らされる民衆の姿である。

ブレヒトはこの作品を書き上げるに当たってヒトラー率いるナチス・ドイツによる侵略戦争を念頭に置いたに違いないだろうが、私が読んで感じたのは「戦争法案」を強行可決して外国に出かけて行って戦争できる国になろうとする日本の未来だった。
物語に登場する暴君クレオンが、読み進むうちに安倍政権とダブってしまって、「ブレヒトは今日の日本の姿まで予測したのか?」と思ってしまうほどだった。

本書の解説はこう書く。
テーバイの暴君クレオンにとって、戦争とはビジネスである。しかもそのビジネスは、戦争=獲物=愛国=国家=祖国=大地=故郷の論理で貫かれる。ところがその戦さもうまくいかない戦場で、戦線からの逃亡が起こる。兵を残して一足先にテーバイに戻ったクレオンは戦意高揚のために勝った、勝った、また勝ったと中間報告をし(デマゴギー)、勝ち戦さのためのバッカスの祭りを催す。と同時に、兄エテオクレスの死に驚いて逃げ出し殺されたポリュネイケスの死骸を野ざらしにし、「国賊はこういう目にあうのだ」と国民への見せしめにする(粛清)。

戦争(あるいは支配)の論理は、勝ち組と負け組、優越者と劣等者の論理(差別の論理)と、その犠牲羊(スケープゴート)を必要とする。しかも祖国愛、郷土愛、組織への忠誠の名のもとに。「最後に道徳という予備軍にまで動員をかけようとする試み」(ブレヒトの『日誌』より)も行われる。

権力に憑かれた男は、己れに逆らう者をすべて切り捨てていかなければならない。「権力を追い求める者は、渇えて塩水を飲むのと同じ、やめられないのです。ますます飲み続けずにはいられない。昨日は兄、今日は私」(アンティゴネのセリフ)

まるでかつての軍国主義の日本のようであり、そのような時代の日本を「美しい国」とほめたたえる人がリードする今日の日本の将来を言い当てているようで、読み終わってブルッと寒けがした。