善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

コーカサス3国旅行記②

コーカサス3カ国の旅3日目の12日(日)は午前中バクー市内観光のあと一路北西への道をたどり、ガバラへ。

カスピ海に面したバクーは石油や天然ガス採掘によって急速な発展を遂げつつある街だが、かつてはシルクロードの中継貿易の拠点として栄えたイスラムの古都でもある。
ただし、アゼルバイジャンの主な宗教はイスラム教(シーア派)ということだが、かなり世俗化が進んでいるらしくて、旅行中、礼拝を呼びかけるアザーンの音が聞こえることはなかった。酒もタバコも自由で、スカーフを巻いた女性を見ることもあまりなかった。われわれが行ったときバクーはラマダン(断食月)中だったはずだが、レストランは昼間から賑わっていた。
ただし、食事に豚肉は出なかったから、それなりの戒律はあるのだろう。

もともとこのあたりはゾロアスター教の影響が強い地域だったらしい。地中深くから漏れ出す天然ガスは炎となって絶えることがなく、このため、火を神として崇めるゾロアスター教の聖地でもあった。アゼルバイジャンの「アゼル」とは古代の言葉で「火」を意味するという。

アゼルバイジャンは古来、アラブやイラン、ロシア、モンゴルなど、実にさまざまな民族の影響を色濃く受けた国だ。
7世紀ごろからアラブ人とともにイスラム教がやってきてその支配下に置かれるようになる。さらに11世紀以降はトルコ系の遊牧民が侵入し、13 世紀にはタタールモンゴルの侵略を受けている。
その後もイラン系サファヴィー朝に支配されたり、トルコのオスマン帝国に征服されるなどののち、南下してきたロシア帝国支配下に入り、ついにはソビエト連邦の一員となる。ソ連の崩壊によって独立が成し遂げられたのは1991年のことである。

さまざまな民族が出入りしたためか、アゼルバイジャンの人たちは他国民に寛容なような感じを受ける。東洋から来た日本人に対しても屈託のない笑顔で迎えてくれた(もっとも隣国のアルメニアとはかなり険悪なようだが)。

バクーに1泊した翌日朝の朝食。以後、どこもだいたいバイキングで、こんな感じ。
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デザートのスイカがいつも楽しみ。
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市内観光で訪れたのは、まずは殉教者の小道。バクーの南の高台にあり、ソ連末期のバクーにおける騒乱の犠牲者や隣国アルメニアとの戦争の戦死者が眠っている。墓石には亡くなった人の写真がモノクロで刷り込まれている。
あとで気づいたことだが、ここに限らず、コーカサスでは墓石に死者の写真がついている光景をあちこちで見た。亡くなった人の面影を忘れないためだろうか。
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ここからはバクー市内が一望できる。
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フレーム・タワーも近くで見るとなかなか巨大。ほかにも、バスの窓からしか見られなかったが話題のザハ・ハディド氏(新国立競技場の設計者)が設計した文化センターがバクーにあり、やっぱり流線型をしていた。
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城壁に囲まれた旧市街へ。
15世紀ごろこの地を支配していたシルヴァンシャー朝の王宮、シルヴァンシャー宮殿。
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遺構はかなり失われているようだったが、再現された絵などが興味深かった。
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壁に彫り込まれた文様はホンモノのようだ。
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壺らしきものの真ん中の模様はアラビア文字だろうか。
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城壁の内側にあった投石機。
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乙女の塔。もともと拝火教寺院として紀元前5世紀に最初の塔が建てられ、要塞の役割も果たしていたという。その後、12世紀に建て直されて高さは30mの塔となったという。
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昼食はキャラバンサライスタイルのレストランへ。キャラバンサライとはシルクロードを行き来する隊商のための宿のこと。アゼルバイジャン名物というケバブ(肉の串焼き)をナンで巻いて食べる。こういう料理が出るところを見ると、やはり中東だ。
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添えられた香草の山。これがけっこうクセがあって、ナンに巻いて食べるとウマイ!
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レストランから出ると中庭で食事中の家族がいて、手を振ると向こうも手を振ってくれた。
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ナント持ち運び自由のみやげ物店を発見!
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旅はさらに続く。