善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

9月文楽 双蝶々曲輪日記

きのうの敬老の日国立劇場で9月文楽公演・第1部『双蝶々曲輪日記(ふたつちょうちょうくるわにっき)』。

通し狂言なので午前11時開演で終わったのは午後3時半。ほぼ1日がかりの文楽三昧。
前から5列目の真ん中で、今までいろんな席に座ったが、人形も舞台全体もよく見えてちょうどいい感じだった。
会場は満員御礼。休日だったからか、若い人が多く、男性も目立った。文楽の将来にとってはうれしい。

『双蝶々曲輪日記』は竹田出雲・三好松洛・並木千柳(宗輔(そうすけ))らの合作。寛延2年(1749)大坂竹本座初演。遊女の吾妻と豪商の息子、与五郎の情話を背景に、相撲取りの濡髪長五郎と放駒長吉の達引(たてひき、意地の張り合い)、義理人情の世界を描いた作品。

ドラマツルギーとしては傑出している。
たとえば「橋本の段」では、3人の父親の心情がぶつかり合い、深い音色の三重奏となる。
幕切れの「八幡里引窓の段」では、引窓(日の光を取り入れるために屋根に設けられた天窓。下から縄を引いて開閉する)が効果的に使われてクライマックスを演出する。

ただ、そもそもの話の発端が、女房のいる大店のボンボン、道楽息子(与五郎)が遊女といい仲になり、身請けして妾にしようとする。ところが、その遊女に横恋慕している侍がいて、道楽息子と対立。相撲取りの濡髪長五郎は、道楽息子の父親がタニマチであるため息子の身請けのために奔走。ついには侍を叩き切ってお尋ね者になるという話で、道楽息子の色恋沙汰がそもそもの発端というのが気に入らない(まあ、当時としては当たり前のことで、文楽でもよくある設定ではあるが、妾にしようというのは初見)。したがって、泣かせる場面でも涙は出なかった(泣いている人もいたが)。

最後の「八幡里引窓の段」。
濡髪長五郎には幼いときに別れ別れとなった実の母がいて、その母は今は義理の息子である与兵衛夫婦と一緒に暮らしている。もともと長五郎の父親は代官をしていて、その父親の名を継いで与兵衛が代官に就任。長五郎が義母の息子であることを知らない与兵衛にとって、初の仕事がお尋ね者となった長五郎の逮捕だった。
ただし、夜間の探索は与兵衛が務め、日中は別の者が長五郎を追うという決まりで、それが物語の結末の大きな伏線となる。

明日は放生会(殺生を戒めるため鳥などの生き物を放す儀式)という陰暦8月15日(中秋の名月)の前日。実の息子の長五郎が訪ねてきて、瞼の母との対面。実の子どもを守ろうとする母に対して、事情を知った長五郎は義理の息子に手柄を立てさせるため、自分を捕まえるように説得する。
2人の子の間で揺れる母の心。

義太夫の声が切々と響く。ついに息子に縄打とうとする母はいう。

「昼は庇い、夜は縄かけ、昼夜と分ける継子本の子。慈悲も立ち義理も立つ。草葉の陰の親々への云い訳。覚悟はよいか」

母は引窓の縄で息子を縛り上げる。
ところが、実の親子のやりとりを陰で聞いていた与兵衛は、姿をみせると「でかした」といいながら、「縄先知れぬ窓の引き縄、3尺残して切るが古例。目分量にこれから」とすらりと抜いた刀で縄を切ると、窓が開いて差し込む月に、
「南無三宝、夜が明けた。身共が役は夜の内ばかり。明くれば即ち放生会。生けるを放す所の法。恩に着ずとも勝手にお往きやれ」
といって、ちょうど鳴りだす時の鐘が9ツを打つのを6ツ聞いて、
「残る3ツは母への進上」
と、長五郎を解き放つ。

実際に与兵衛が長五郎を逃がしたのは暮9ツ、つまり真夜中の午前零時だろだったのだが、3ツを残して6ツ聞いたところで日の出の時刻の明け6ツとみなし、自分の役は終わった、きょうは放生会であると、長五郎を助けたのだった。

大御所の住大夫、源大夫がいずれも引退。しかし、この日は中堅・若手ががんばっていた。
「八幡里引窓の段」の切(きり)で、咲大夫が情感こもってよかったが、何をいってるのかわからないところが多いのには困った(その点、「大宝寺町米屋の段」の奥、津駒大夫は口跡がよく日本語がよくわかって聞きやすかった)。

遊女の吾妻を遣った清十郎。色気があっていいなーと感心したら、「引窓の段」に出てきた女房おはやの簑助がやはり絶品。
ただ座っているだけで人形が生きている。

勘十郎は「橋本の段」で駕籠かき甚兵衛。それなりの重要な役だが、印象は薄かった。
夜の部の新作『不破留寿之太夫(ふぁるすのたいふ)』に全精根をかけてるのかな。