漢字は日本人にとって生活に欠かせないもののはずなのに、小中学校での教え方のマチガイで嫌いになった人も多いに違いない。そんな人がもう一度漢字が好きになるきっかけになれば、と書かれたのが本書、という。
本書の宣伝文でもこう言っている。
漢字の宿題が苦痛だった人も多いでしょう。小中学校では約二千字の漢字一つひとつについて、筆順、とめ・はねなどの字形、音読みや訓読み、部首などを習います。しかし、漢字を学び、楽しむために本当に大事なものとはなんでしょう。漢字学の第一人者が、漢字の意外な成り立ちや読み方の歴史、部首のふしぎなど、学生時代に知っておけばよかった知識を伝授し、真に必要な知識を解説、さらに望ましい漢字教育を提言します。
わが意を得たり、と思ったのが「女」という字について。
セガレが小学校だったか中学校のときだったか、国語の書き取りのテストで、「女」という漢字の二画目の「ノ」と三画目の横線を書くとき、「ノ」が横線を突き抜けてるように書いたら、「×」だった。「突き抜けてはいけない」というのだ。
セガレが小学校だったか中学校のときだったか、国語の書き取りのテストで、「女」という漢字の二画目の「ノ」と三画目の横線を書くとき、「ノ」が横線を突き抜けてるように書いたら、「×」だった。「突き抜けてはいけない」というのだ。
「へー、そうなのか。でも、墨で書くときはどうしても多少は突き抜けることもあるだろうし、少しぐらいいいじゃないか」
と思ったが、「×」ということは「零点」である。
と思ったが、「×」ということは「零点」である。
しかし、本書によれば、内閣告示である「常用漢字表」によると、突き抜けても突き抜けなくても、どちらでもいいということになっている。
要するに、印刷されている文字というのは、デザインによってずいぶん異なるものである。それは単にデザインの違いであって、字体の違いではない。
当然、印刷文字と手書き文字でも違ってくる。
当然、印刷文字と手書き文字でも違ってくる。
「×」にした教師は、自分が教科書として使っている印刷された文字に忠実なあまり、印刷文字のお手本とチョッピリでも違っちゃダメと杓子定規に理解して、バツにしたのだろうが、そんなことは些細なことであり、多少のことは大目に見るのが本当の国語教育なのである。
もう1つ、ハタと膝を打ったのが書き順(筆順)について。
これも学校教育ではしつこく教えるが、筆者は「漢字の筆順って、ちゃんと覚えないとだめですか?」と疑問を呈していて、「絶対にこうでなければならない」という決まりは存在しない、と述べている。
これも学校教育ではしつこく教えるが、筆者は「漢字の筆順って、ちゃんと覚えないとだめですか?」と疑問を呈していて、「絶対にこうでなければならない」という決まりは存在しない、と述べている。
ほかの人に読みやすい文字である、ということが大事なのであって、そのために生み出されたのが、多くの人が書きやすく読みやすい文字の書き方。しかしそれは、多くの人がそうしているというだけの話で、マジョリティの動向に合致しないからという理由で頭から否定されるべきものではない、と筆者は述べていて、まさに同感。
ところで、本書の主旨からは大きくずれる、というよりむしろ、まるで関係ないが、読んでいて目を丸くしたのが「職貢図」という絵巻に描かれている絵。
漢字の歴史を語る中で出てくるのだが、「職貢図」というのは古代の中国王朝において、中国の皇帝からみた諸夷と呼ばれた周辺諸民族が貢ぎ物を持って様々な扮装で来朝してくる様子を絵図で描いたもの。
梁から清朝の時代まで複数の存在が確認されているが、本書で取り上げられているのは梁の時代のものらしい。
梁から清朝の時代まで複数の存在が確認されているが、本書で取り上げられているのは梁の時代のものらしい。
本書の絵は小さくてよくわからなかったので、インターネットで調べてみる。
絵をよーく見てみると、お隣の朝鮮半島の百済からの使節はちゃんとした正装をしていて、見事な衣冠束帯の姿だ。
これに対して、当時は「倭」といった日本の使節は、ザンバラ髪で胸をはだけ、腰には荒縄をしばってベルトにしていて、靴も履いておらずハダシのまま。
絵をよーく見てみると、お隣の朝鮮半島の百済からの使節はちゃんとした正装をしていて、見事な衣冠束帯の姿だ。
これに対して、当時は「倭」といった日本の使節は、ザンバラ髪で胸をはだけ、腰には荒縄をしばってベルトにしていて、靴も履いておらずハダシのまま。
なるほど、昔は百済のほうが日本なんかより文化的にはるかに進んでいて、日本はド田舎の国だったんだなとヘンに感心してしまった。
今でこそ世界トップクラスの国力を持つ日本だが、昔のことを思えば、もっと謙虚さを持つことは必要だろう、と、おかしな読後感になってしまった。