善福寺公園めぐり

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てんてん

山口謡司『てんてん』(角川選書)を読む。

齋藤希史氏著の『漢詩の扉』を読んでいたら、巻末の宣伝に『てんてん』という題の同じ角川選書の本があり、題名にひかれて手にした。
筆者の山口氏は大東文化大学准教授(中国文献学)で、平成24年の出版。
「てんてん」って何かと思ったら、「て」なら「て」の清音に濁りをつけて「で」とする濁点(濁音符)のこと。「ちょんちょん」といったりもする。

筆者によれば、江戸時代までは文章に濁点、つまり「てんてん」をつけることはなくて清音だけで、人々は文章を読むとき、状況に応じて濁る、濁らないを判断していた。
濁点をつけるようになったのは近代になってからだという。

たしかに、落語でも『道灌』というのがあるが、「七重八重、花は咲けども山吹の・・・」という歌をご隠居がひらがなで紙に書くと、八っつあんは書いてある通り「ななへやへ、はなはさけともやまふきの」と読んで笑いをとっていた。

なぜ濁点をつけなかったか。「穢(けが)れ」の思想とも関係があるのだろうか。
本書によれば平安時代摂関政治が行われるようになって実権を失った天皇は、穢れを避け、浄化へという道をたどりはじめたという。
日常生活でも、天皇は日没後着替えをするが、その際必ずお祓いをするとか、一度はいた褌(ふんどし)は決して身につけない、あるいは土には触れない、死人に触れたりしない、肉や、ニラなどの葷草(くんそう)を口にしないなど、穢れを忌むことが非常に多かったとか。

それで、文章にある濁りも、汚いもの、穢れととらえたのだろうか。
たしかに、『道灌』にもある通り和歌には濁りはない。
その伝統は今に生きていて、毎年1月に行われる歌会始では、選ばれた歌を書くとき、「濁点をつけない」「最後の3文字は万葉仮名にする」というルールがあるという。

1999年(平成11年)に天文学者の藤田良雄氏が歌会始の召人となったときに詠んだ歌。

青そらの星をきわむとマウナケア動きそめにしすばるたたえむ

ハワイ・マウナケア山に建設された国立天文台すばる望遠鏡を詠んだもの。
ところが、濁点をつけない、最後の3文字は万葉仮名という決まりによって次のようになった。

青そらの星をきわむとマウナケア動きそめにしすはる多辺牟

「すはる多辺牟」では何のことかわからない。

ところで本書によれば、昔の人(つまりは江戸時代以前の人)はしゃべるときは濁音を巧みに使い分けていて、「が」と「ぐゎ」の発音の区別がしっかりできていたという。

「贋物」は「がんぶつ」で、「玩物」は「ぐゎんぶつ」、「鵞鳥」は「がちょう」で「画帳」は「ぐゎちょう」、「雅楽」は「ががく」、「画学」は「ぐゎがく」といっていたそうだ。

今、「ぐゎんぶつ」なんていう人はいない。

そういえば最近、といっても平成3年(1991年)から、外来語の表記が変更になって、「Vの字はヴァ、ヴィ、ヴゥ、ヴェ、ヴォも可」となった。
それで「ヴェートーヴェン」とか「ルイ・ヴィトン」とか書けるようになった。

しかし、発音としては「ベートーベン」「ルイ・ビトン」であり、人(同じ日本人)と話していて、上の歯を下唇につけて「ヴィトン」なんて決していわないが、むしろ昔の人なら「ぐゎんぶつ」と同じように「ヴィトン」も正しく発音できたかもしれない。

一方、「ぐゎー」を日常的に使っている地域がある。
それは沖縄だ。

沖縄で「ぐゎー」とは漢字で表記すれば「~小」、「~ちゃん」といった愛称っぽい意味も込められている。
昨年亡くなった歌手で三線奏者の登川誠仁さんは「せいぐゎー(誠小)」と呼ばれた。ちょっとエッチな口説を聴いたことがあるが、茶目っ気とユーモアのある人で、ファンは親しみを込めて「せいぐゎー」と呼んだのだろう。

「まちぐゎー」とは市場のことで、小さな店がいっぱい並んでいる様子をあらわす。
「すーじーぐゎー」といえば路地のこと。「すーじー」は筋で、それに「ちゃん」をつけて、曲がりくねった路地裏の小道だけど、私の好きな楽しい道なんだよ、という意味。

「が」ではなく「ぐゎー」だからこその生きた言葉といえよう。