筆者は文芸春秋の「文学界」や「オール読物」などの編集者として著名作家を担当する一方、新人作家の発掘、育成にもかかわり、芥川賞や直木賞の選考に当たる日本文学振興会理事も務めた人。
特に深くかかわった作家たちの思い出を綴ったエッセイ集で、いずれも故人となった水上勉、平野謙、庄野潤三、舟橋聖一、立松和平、井上ひさし、森敦、尾崎一雄、寺久保友哉、大庭みな子の10人の小説家と、画家の有元利夫(宮本輝の『青が散る』の装画などで知られる)を取り上げている。
特に深くかかわった作家たちの思い出を綴ったエッセイ集で、いずれも故人となった水上勉、平野謙、庄野潤三、舟橋聖一、立松和平、井上ひさし、森敦、尾崎一雄、寺久保友哉、大庭みな子の10人の小説家と、画家の有元利夫(宮本輝の『青が散る』の装画などで知られる)を取り上げている。
がんに侵され、命わずかとなった平野謙の鬼気せまる姿がすさまじい。
「喜多見の家で会った平野さんは、頬骨が突き出て、頬も顎も肉が落ち、すっかり別人の顔付きであった。窪んだ眼窩の奥にある老眼鏡レンズを通して見る平野さんの目は、厳しく鋭かった。私と最後の仕事を一緒にしたい、『文学界』に載せて欲しいと、息も絶え絶えに話すのだった」
当時、共産党が戦前の非合法の時代に起こした「スパイ・リンチ事件」が問題になっていて、当時の真相の一端を知る数少ない生き証人が平野謙だった。
死ぬ前に自分が知るホントのことを書き残したいと思ったのだろう。
死ぬ前に自分が知るホントのことを書き残したいと思ったのだろう。
「(癌研附属病院に再入院した平野謙から渡された原稿は)二百字詰原稿用紙(ペラ)に書かれ、かなりの枚数がある。執念と、そしてガン病棟のあらゆるものをとどめて、じっとりとしていて重たかった。原稿番号(ノンブル)を数えようにも、原稿がめくれない。所々にお茶でも零れたのだろうか染みがあり、何かの雫が垂れたのだろうインクの文字が滲んでいる箇所もあった。手垢にまみれているものもあれば、端を折ったままのものもある。爪先で起こして数えようとするのだが、なかなか進まない。私は、指に唾をつけてめくった。そして、また指をなめ繰返した。当時、ガンは伝染すると言う人もいたが、そのようなことを気にしていたのでは、捗らない。不潔、不衛生など言っていたら、編集者は務まらないのだ。
顔を上げた。骨と皮の笑顔が私の目に飛び込んだ。嬉しそうだった。原稿も、ガンも、何もかも受けとめようとする私の気持が平野さんに伝わったと思った。これが私の見た平野さんの初めての笑顔、そしてそれが最後に見た平野さんの顔であった」
顔を上げた。骨と皮の笑顔が私の目に飛び込んだ。嬉しそうだった。原稿も、ガンも、何もかも受けとめようとする私の気持が平野さんに伝わったと思った。これが私の見た平野さんの初めての笑顔、そしてそれが最後に見た平野さんの顔であった」
一方、「遅筆堂」を自認した井上ひさしとのやりとりはどこかユーモラスだ。
作家に何とか原稿の締切りを守らせるため、「身柄を拘束」し、文藝春秋社内の「特設の書き部屋」に缶詰にすることも少なくなかったようだが、井上ひさしの場合はそれでもすぐには書き始めない。
何か“儀式”をしないと書く(仕事をする)気にならない、というのはたしかにあるだろう。
何か“儀式”をしないと書く(仕事をする)気にならない、というのはたしかにあるだろう。
井上ひさしの場合は「体力勝負です、ステーキを食べに行きましょう」「風呂に行って体を潔めてから始めましょう」というので、ステーキハウスに行き、そして手拭いをぶら下げて銭湯へ行ったりする。春や夏はこれに高校野球のテレビ観戦が加わり、「結果が気になるから、試合が終わってから」となかなか机に向かわない。
作家のお守りをする編集者も大変だ。
作家のお守りをする編集者も大変だ。