戯曲から小説、エッセイと多彩な作家活動をしてきた井上ひさしの作品群の中から、短編・中編小説を年代順に収める初の全集。去年の秋から刊行されている。その第1巻と第2巻。
第1巻は「ブンとフン」および続編の「フン先生の初恋」、短編小説集「いとしのブリジット・ボルドー」、「講談 弁天小僧・お嬢吉三」など、井上小説世界の原点というべき作品群(1958~1971)が収められていて、23歳で連載開始した幻の処女小説「燔祭」を単行本初収録。
どれも抱腹絶倒の作品ばかり。うっかり電車の中で読んでたら思わず吹き出してしまい、往生した。
特に「ブンとフン」。若いころの(36歳のころの作品)、だからこそ何者も恐れない攻撃的な言葉遊びの数々がかえってすがすがしい。
特に「ブンとフン」。若いころの(36歳のころの作品)、だからこそ何者も恐れない攻撃的な言葉遊びの数々がかえってすがすがしい。
第2巻は「モッキンポット師の後始末」「四十一番目の少年」「イサムよりよろしく」、単行本未収録作品の「十二の微苦笑譚」ほか。
ことに傑作だったのが「モッキンポット師の後始末」。これも井上ひさし30代の作品。
孤児院出身の「ぼく」は、孤児院の院長の紹介状を手に東京のS大学文学部仏文科主任教授であるモッキンポット神父を頼って上京。神父の口利きで大学近くの「聖パウロ学生寮」入寮するが、そこで同じ寮に住む東大医学部学生の土田、教育大理学部学生の日野と出会う。
食欲、性欲旺盛ながら極貧の暮らしをしている3人は意気投合。いかにも当時の学生らしい悪知恵を絞って小金稼ぎのためにいろんな策略を巡らしては失敗の連続と相成るが、そのたびに後始末というか、尻拭いをしてくれるのがモッキンポット師だった。
文中に登場する出来事はフィクションだろうが、「ぼく」とは井上ひさし自身であり、彼の青春時代の実体験にもとづいて書かれているからまるっきり「ウソ」とも言い切れない。それが妙なリアリティとなって、この小説をおもしろくしている。
しかし、何といってもモッキンポット神父の人柄が憎めない。
おおらかなのか無責任なのか、いくら若気の至りといっても、普通なら不良行為を働く3人はただちに退学、寮から追放の憂き目にあうのが当然のところを、モッキンポット師はあきれながらも許す。そして何度失敗してもそのたびに次のチャンスを与えてくれる。
おおらかなのか無責任なのか、いくら若気の至りといっても、普通なら不良行為を働く3人はただちに退学、寮から追放の憂き目にあうのが当然のところを、モッキンポット師はあきれながらも許す。そして何度失敗してもそのたびに次のチャンスを与えてくれる。
「モッキンポット」とはもともと人の名前ではなく、「間抜けなお人好し」という意味だと井上ひさしは言っている。
小説に登場するモッキンポット師にはモデルがいて、その神父がいつも口癖のように言っていたのが「モッキンポット」であり、学生時代、井上ひさしはしばしばその神父からこの言葉を投げつけられ、神父にその意味を問うと「人の真似をして嬉しがっている人物のことで、つまり俗物のことだ」と答えたという。
小説に登場するモッキンポット師にはモデルがいて、その神父がいつも口癖のように言っていたのが「モッキンポット」であり、学生時代、井上ひさしはしばしばその神父からこの言葉を投げつけられ、神父にその意味を問うと「人の真似をして嬉しがっている人物のことで、つまり俗物のことだ」と答えたという。
俗物でもいい、いや俗物こそいい。この小説のモッキンポット師のような人こそ人生の師であるべきだ、とフト思った。