善福寺公園めぐり

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志の輔らくご リバイバル『大河への道』-伊能忠敬物語-

テアトル銀座byPARCOで「志の輔らくご リバイバル『大河への道』-伊能忠敬(いのう・ただたか)物語-」を聴く(4日夜)。
入口ホールには笹が用意され、聴きに来た人が願い事を書いてつるしていた。
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会場は満員。客層は老若男女まちまち。立川志の輔の人気の幅広さをうかがわせる。

何でも今年1月に渋谷のPARCO劇場でやったのがえらく好評で、夏の「志の輔らくご」で再演することにしたという。

休憩なし、2時間たっぷりの大熱演。釈台を置いて、一見、講談かと思わせる雰囲気だが、話はリッパな落語。というより、従来の落語にはない、落語を超えた落語とでもいったらいいか。

まくらで、志の輔がなぜ伊能忠敬に興味を持ったか、伊能忠敬の偉業をぜひとも多くの人に知ってほしいと落語にすることを決意した理由とは何かを、長崎の坂本龍馬ブームにはじまって、えんえんと続き、ようやく本題に入ると、登場人物は千葉県庁の大河ドラマプロジェクトの役人2人と、若手シナリオライター

「大河への道」って何かと思ったら、NHKの大河ドラマをわが千葉県を舞台にやってもらおうと、県庁が事前運動のためプロジェクトを立ち上げ、若手ライターに委嘱して「伊能忠敬物語」をつくり、NHKに売り込もうという作戦。
現代の話と、江戸時代の話とがうまく重なり合い、物語は進んでいくが、伊能忠敬本人は一切出てこない。

たしかに、伊能忠敬はいう人はスゴイ人だ。
千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となる。当時傾いていた伊能家を再興。経営能力はバツグンだったようだ。1783年(38歳)の天明の大飢饉では私財をなげうって地域の窮民を救済している。50歳になったとき、家業を全て長男に譲り、幼いころから興味を持っていた天文学を本格的に勉強するため江戸へ出て、幕府天文方、高橋至時(よしとき)の門下生となる。
人生50年の時代、50にして第2の人生を歩み出し、歴史に残る快挙を成し遂げた。

忠敬には夢があった。それは地球が丸いということを自分の目でたしかめるため、子午線1度の長さを実測することである。
正確にその長さを算出できれば、地球の円周もはっきりと何千何百何十里と計算することが可能となり、そうすれば半径も直径も、地球の重ささえ求めることが可能となる。

子午線1度の長さはどうやって算出するかというと、北極星に向かって(つまり真北に向かって)地上を何里歩いたら北極星の高さが1度上がるのか、を確かめればその数字が出る。これに360をかければ円周が出るので、地球の円周を知ることができる。

当時、世界中の人びとが同じようなことを考えていて、ヨーロッパではすでに答えが出ていたというが、日本ではまだだれも実測していない。それで忠敬は実測に執念を燃やした。

当時の幕府は「子午線1度の長さの実測」なんて興味はない。そこでは忠敬は、蝦夷地(今の北海道)の地図を実測で作るという名目で測量の許可を得て、北に向かって出発した。これが忠敬の日本地図作成の第1歩となった。

当時の測量の方法は「歩く」ことだった。
忠敬は歩幅が一定になるように訓練し、それによって距離を計算した。

蝦夷地の測量に出発したのが1800年、忠敬55歳のとき。そしてすべての測量を終えたのが1815年、70歳のとき。15年かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球一周分。歩いた歩数は4000万歩。

しかし、高齢になっていた忠敬は肺を病み、1818年、73歳で病没。天文方の高橋景保(至時の息子)や弟子たちは「この地図は伊能忠敬が作ったもの」と世間に知らしめるため、彼の死を伏せて地図の完成を目指した。
1821年、江戸城大広間。将軍をはじめ幕府の重鎮たちが見守る中、ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものだった。

志の輔の落語が終わって、舞台が暗くなると、スクリーンに映像が写し出される。上空から撮影した日本の各地。伊能忠敬はこれら日本のすみずみを歩いて測量したんだな、と改めて驚嘆させられる。

国土地理院作成の現代の日本地図が大写しになる。それに、伊能忠敬の地図が重ねられると、ナント、ぴったり!
かたや宇宙からの目をはじめ、デジタルでつくられた最新の地図に対して、まったく遜色のない、いまから200年も前に、人の足で測ってつくられたアナログの地図の偉大さ。きょうの落語のオチはこの映像にあると思わせた。

もう1つ、スクリーンではこんなエピソードも語られていた。
忠敬の死から43年後の1861年、イギリス測量艦隊が日本にやってきて、幕府に日本沿岸の測量を要求したが、幕府の役人が忠敬の地図の一部を携帯していたのを船長が見てびっくり仰天。「日本人はすでにこんな立派な地図を持っている。それなら今さら測量する必要はない」と測量を中止して帰って行ったという。

とても勉強になった1夜であった。