善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

地図で読む戦争の時代

今尾恵介『地図で読む戦争の時代』(白水社)を読む。副題に「描かれた日本、描かれなかった日本」とある。

白水社ってフランス文学専門かと思っていたら、こういう本も出しているんだね。
筆者は中学時代から地図や時刻表を眺めるのが趣味だったという。長年、地図を見続けて、気づいたことがあった。地図づくりの担当者が正確に測量して正確に描いているはずの地図には「罠(わな)」もあるということだ。

もともと地図づくりは軍事目的から始まった。伊能忠敬の場合は「地球の大きさが知りたい。正確な緯度1度の長さを知りたい」という理由からといわれるが、表向きは正確な日本地図を作るということで、時の幕府にとっての軍事的な目的に沿うものだっただろう。

現在の国土地理院の前身も陸軍陸地測量部というところで、戦時中は、軍事施設や工場を対戦国の目から隠すため、代わりに住宅地や林を描いた「戦時改描(かいびょう)」が盛んに行われたという。
本書を読むと、この改描が恐ろしく稚拙であることがよくわかる。
ダムの存在を隠すために川幅が狭くなった「小川」のように改描したつもりが、近くの駅の名前の「ダム」が消されていないためバレバレだったり、不自然な地図になってしまってウソがはっきりとわかるものだったり、あまりに素人っぽい改描が目立つ。

そこで筆者はこう想像する。
「正確に描くことを誇りにしてきた測量部員は、後世の人が見て気づくようにわざと下手に描いたのではないか?」
なるほど、そういう視点であらためて昔の地図を見ると、人間くささが浮かび上がってくる。

軍事目的のため「描かない」というやり方もある。地形を隠すため等高線は引かれず、皇居や皇族の敷地は空白にされた。改竄ではなく真っ白にしてしまうのだからスゴイ。皇居や皇族の住まいは軍事施設以上に秘密なものとされたのか。それとも世間の目に晒すなんて恐れ多いと思ったのか。

広大な土地を独り占めにした軍事施設がその後どうなったかも、地図でたどるとおもしろい。
武器工場は東京ドームになったし、“帝都防衛”のため急造した成増飛行場は戦後、米軍に接収されて空軍の家族宿舎「グラントハイツ」となり、その後、光が丘団地となった。
代々木公園は練兵場だったし、東京ミッドタウンは歩兵第一連隊(その後防衛庁)だった。
戦前は弾薬庫に弾薬を運ぶ線路だったのが、今は「こどもの国線」となって子どもたちを運んでいる。

千葉県の八柱霊園の周辺を走る新京成電鉄の線路は極端に蛇行したカーブが多い。それは別に霊園を迂回しようとしたためではなく、この線路は大半が軍用鉄道で、陸軍が規定した線路の長さにあわせるため、距離を稼ごうと故意にねじ曲げて作られたからだという。つまり、予算に合わせてムダな出費を平気でするお役所仕事そのものだ。呆れた「帝国陸軍」ではある。

筆者が「あとがき」で述べていることが興味深い。
自戒を込めて筆者が強調するのが、小縮尺でなく、大縮尺の地図のような見方で捉えることの大切さ。そうでないと本質が見えなくなってしまうという。

「縮尺」とは、実際の距離を地図上に縮めて表した割合のこと。5万分の1の地図と1万分の1の地図とを比べれば、前者は後者より小縮尺ということになる。つまり、地図帳を広げて日本列島全図と東京都を比べれば、日本列島は小縮尺であり、東京都は大縮尺だ。
大縮尺の地図ほど、地図上の建物や道路などが大きく表示される。

そこで筆者は「小縮尺の視界にあっても大縮尺を思う想像力を持て」と、いかにも地図好きの人らしい言い方をする。
それはどういうことかというと、たとえば「東京大空襲で10万人以上が犠牲になった」というのが小縮尺の視点。一方、「いつも買い物をしていた本所区亀沢町の乾物屋の一家が一人残らず亡くなった」というのが大縮尺の視点。今の時代こそ、生身の人間の姿を浮かび上がらせる大縮尺の視点が大切なのではないか、と筆者は説く。

そして筆者はこう述べるのである。

しかし小縮尺の視界の中にあって大縮尺を思う想像力は、情報が氾濫する時代である今日でも意外なまでに育っていないように思える。たとえば尖閣諸島北方領土、それに竹島など、燐国との間で未解決な問題があるが、こと領土となると「満蒙は生命線である!」と叫んでいた時代と同様に論調はにわかにヒステリックになってしまう。ほとんど誰も見たことのない場所で行われていることを、たとえばマスコミという縮尺の必ずしも正しくない、あるいは意図的なデフォルメが行われた「地図」をもとに判断することの危うさ。
ある種の人たちが「縮尺の歪められた地図」を利用して人々を煽動し、しばしば大いなる愚行を犯すことは歴史が証明している。誰もが「本当の地図の見方」を知り、しかも複数の地図から状況を落ち着いて判断し、行動する世の中。そんな時代ははたして到来するだろうか。

「到来する」といってほしかったな。