きょうはその足で六本木へ。国立新美術館に初めて行く。
ガラス張りの建物で、クネクネした曲線と、円錐のような形が面白い。昔はたしか東大の生産技術研究所があったところ。生産技術といいながら森の中にある感じだったが、いかにも現代チックな風景に一新されていた。
ガラス張りの建物で、クネクネした曲線と、円錐のような形が面白い。昔はたしか東大の生産技術研究所があったところ。生産技術といいながら森の中にある感じだったが、いかにも現代チックな風景に一新されていた。
明らかに日本の陶芸とは異質な感じがする。シンプルではあるが、色彩と、造形が美しい。器の皮膚は薄く、不安定(実はそうではないが)なほどにほっそりと立っている。
日本の陶芸だったら、焼き物は土から生まれる、と作者はいうだろう。益子の土で焼くから益子焼であり、九谷の土で焼くから九谷焼なのだろう。だが、きょうの展覧会を見るかぎり、釉薬へのこだわりはかなりありそうだったが、土へのこだわりはあまり感じられなかった。
それは彼女の人生と関係があるかもしれない。ウィーンの裕福なユダヤ人家庭に生まれたルーシーは、工業美術学校でろくろの面白さに魅了され、作品を作るようになる。やがて国際的な展覧会で数々の賞を受賞し、高い評価を得たという。
しかし、迫りくる戦争の足音とともに亡命を余儀なくされ、1938年ロンドンに居を移すと、以後はイギリスで制作を続けた。
しかし、迫りくる戦争の足音とともに亡命を余儀なくされ、1938年ロンドンに居を移すと、以後はイギリスで制作を続けた。
彼女は当時の先鋭的な建築やデザインに共鳴する作品をめざしたという。ロンドンにやってきて最初のころはバーナード・リーチのアドバイスを受けて、どっしりとした感じの作品を作ったりもしたが、結局、自分の作風を貫いた。
山奥にこもり、薪を使った登り窯で焼くのではなく、あえて小ぶりの電気窯で焼くのを好んだというが、そのほうが安定した火力が得られる、という理由だった。
電気窯なら都会の真ん中でも焼き物ができる。都市に生きた陶芸家だったからこそ、土から生まれたとは思えないような「美しい焼き物」をつくりだせたのかもしれない。
電気窯なら都会の真ん中でも焼き物ができる。都市に生きた陶芸家だったからこそ、土から生まれたとは思えないような「美しい焼き物」をつくりだせたのかもしれない。