善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

ローマです!

大学生の息子がローマ旅行から帰って来た。炊きたてのご飯を食べさせてあげる。
1週間のローマ滞在の旅。といっても行き帰りの時間を除けば正味ローマにいたのは4日間ほど。それでも学割で8万円ナニガシで行ってこられるのだから、格安の旅だ。もちろん向うでは自由行動で、昼夜のメシ代も自分持ち。同じ大学の友だちと2人、バイト(夜は塾の講師、昼はビルの窓拭き)でためた金で行ってきた。
一番どこがよかった? と聞くと、「いずこの地もそれぞれに・・・」ではなく、「水道橋!」という返事が帰ってきた。(と、ここんところは「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンふう)
とここまで書いて、アッと気づいた。

ここで訂正です。先日の「プロフェッショナル 濃口尚彦」のところで、「この酒、ムダには飲まぬぞ」を「鬼平犯科帳長谷川平蔵ふう」としたのは誤りで、「七人の侍」の「志村喬ふう」でした。

で、続き。「カラカラ浴場」のさらに南、アッピア街道のあたりのローマ郊外に、「クラウディア水道橋」と呼ばれる遺跡があり、そこまで行ってきたようだ。
古代ローマの都市づくりで特筆されるのが街道であり、水道だ。「ローマ式水道」として有名だが、作られたのが西暦52年ごろ。つまりほとんど2000年近く前にローマ市民は水道の恩恵を受けていたことになる。
以下は塩野七生著「ローマ人の物語」を読んだ人からの受け売りだが、ローマ創世記のころ、イタリア半島には大きく3つの民族が住んでいたという。
エトルリア人は、現在のシェナ、ペルージャといった防御に有利な丘の上に都市づくりをして、平地には住まなかった。一方、ギリシア人は南のナポリシラクサメッシーナなどの海沿いの地に都市を建設した。後発のローマ人には内陸の平坦な土地しか残っていなかった。
しかし、丘の上は防御には優れていても、ほかの地域との交通は不便だったに違いない。また、ギリシア人が選んだ海沿いの地は、敵から攻められやすいという難点があった。
一方、平坦な地は交通に便利であり、外に向かって発展するには好都合で、やがて「すべての道はローマに通ずる」のことわざまで生れるようになった。水道建設も平坦な地だから可能だったのであり、それにより都市のインフラ整備は格段に進んだに違いない。

息子にとっては初めて家族と離れての海外旅行(友だちが一緒だったが)。自分で好きなところに行けて、けっこう楽しかったらしい。もうそんな年齢になったのかと思うと、ちょっぴり感慨無量。