善福寺公園めぐり

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志の輔らくご 牡丹灯籠

下北沢の本多劇場で「志の輔らくご 牡丹灯籠」を聴く。
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「牡丹灯籠」といえば、明治の落語家・三遊亭円朝作の怪談噺として知られ、夏になると多くの落語家が高座にかけるが、志の輔版「牡丹灯籠」は毎年今ごろの時期に本多劇場で口演するいわば“下北沢の夏の風物詩”だとか。今年で12年目というが初めて聴く。
 
客席は満員。いつもの寄席風景と違うのは女性が多いこと。お年寄りから若い人まで、半分近くが女性ではなかったか。テレビでも人気の志の輔らしい。
 
普通、「牡丹灯籠」というと幽霊が出てくるお露と新三郎の馴れ初めとか、お札はがし、栗橋宿のお峰殺しとか、長い長い「牡丹灯籠」の一部しかやらないものだが、志の輔版「牡丹灯籠」の特色は、円朝作の「牡丹灯籠」のストーリーをほぼすべて紹介していること。だから前半は舞台の上で立って登場人物の相関図を示しながら「牡丹灯籠」のあらすじを解説し(もちろんおもしろおかしく)、後半は高座で座って落語を語る。15分ほどの休憩を入れて約3時間しゃべりっぱなしの熱演だ。
 
「牡丹灯籠」は円朝2326歳のころに創作した噺だという。大変な若さで傑作を生み出したことになる。
円朝は江戸時代から続く落語の中興の祖といわれる人。
二代三遊亭円生門下の音曲師の子として江戸湯島に生まれ、7歳のときに見よう見まねの芸で高座にあがる。後にあらためて父の師の円生に入門。家族の反対でいったんは商家に奉公し、転じて歌川国芳のもとで画家の修行を積むなどしたが、やがて復帰し、17歳で芸名を円朝に改め、真打ちとなる。
はじめは道具仕立ての芝居噺で人気を博すが、やがて、怪談噺や人情噺を自作するようになる。海外文学作品の翻案にも取り組んだ。
当時、誕生して間もない日本語速記術によって円朝の噺は新聞に連載されるなどして大人気となる。これが明治の言文一致運動にも大きな影響を与え、円朝は現代の日本語の祖ともいわれている。
 
カランコロンの幽霊が出るお露と新三郎の部分は全体のちょこっとしかなく、怪談噺を入れて15日間、全編30時間にも及ぶ超大作が「牡丹灯籠」だったという。
巧みな話術でその全体像を紹介してくれたのは志の輔の功績。
しかし、肝心の落語の部分は登場人物の演じ分けがイマイチで、話芸としては前に聴いた「中村仲蔵」のほうが出来がよかった。