善福寺公園めぐり

善福寺公園を散歩しての発見や、旅や観劇、ワインの話など

人はいかにして分かり合うか 映画「内なる檻」

ゴールデンウィークの最終日に、東京・銀座のメゾンエルメス10階のミニシアター「ル・ステュディオ」でイタリア・スイス合作の映画「内なる檻」を観る。

2021年の作品。

原題「ARIAFERMA」

監督レオナルド・ディ・コスタンツォ(共同脚本)、出演トニ・セルヴィッロ、シルヴィオオルランド、ファブリツィオ・フェッラカーネ、サルヴァトーレ・ストリアーノ、ピエトロ・ジュリアーノほか。

閉鎖予定の刑務所を舞台に、受刑者と刑務官の不思議な交流を描くヒューマンドラマ。

人の心の寛容さと分かり合うことの大切さについて、とても考えさせる映画だった。

 

イタリアの人里離れた岩山の合間に建つ刑務所。老朽化したため閉鎖されることになり、受刑者の移送が進められていた。いよいよ最後の受刑者の移送というとき、移送先の都合で、急きょ最後に残った12人の受刑者が留まることが通達される。

新しい移送先が決まるまでの間、古株の刑務官ガルジューロ(トニ・セルヴィッロ)は、残された少数の職員とともに刑務所の監督に当たることになる。

受刑者たちは、面会も許されず、食事はまずいケータリングという状況に不満を募らせるが、古参の受刑者ラジョーイア(シルヴィオオルランド)から、厨房を使わせてくれれば自分が料理をつくると提案があり、ガルジューロはそれを承諾するが・・・。

 

一方は罪を犯し償いのための日々を送ってる者、一方はそれを上から目線で監視・監督する者、両極の立場の者は互いに「分かり合う」ことができるのか、というのが本作のテーマに思えた。

イタリア語の原題「ARIAFERMA」とは「閉じられた空気」という意味だそうだが、そもそも刑務所は閉じられた空間であり、なおかつ今にも崩れ落ちそうな古い要塞のような刑務所だけに空気はよどんでいて、圧迫感、閉塞感はより強い。そんな閉鎖空間の中で、12人の囚人と10数人の看守が同じ時間を共有していくとどうなるのか?

当初、刑務官であるガルジューロは、改悛したマフィアという囚人のラジョーイアに、こんなふうな意味のことをいって突き放す。

「お前は犯罪者であり、悪いことをして刑務所にいるんだから、夜だって安眠なんかできまい。オレはそんなお前たちとは違って善良な市民であり、夜はぐっする眠れる。オレとお前との共通点なんてまるでないんだ」

ところが、閉じ込められたような空間の中で同じ時間をすごしていくと、受刑者と看守とのいろんなエピソードを繰り返す中で、いつしか身分とか肩書とかいった“外皮”がはがされていって、“素の人間”があらわれてくる。すると、同じ人間同士であることがわかってくるものなのだ。

本作において、「分かり合う」ために重要な役割を果たしたのが、ひとつは、物語の舞台となった刑務所の建物だった。

監督のレオナルド・ディ・コスタンツォは、物語にぴったりの刑務所はないかとあちこちを探したという。結局、見つけたのは、地中海にあるイタリア領の島、サルデーニャ島のサッカリにある、今は閉鎖されているサン・セバスティアーノ刑務所で、19世紀後半に建てられたパノプティコンと呼ばれる刑務所。

実際のサッカリにある刑務所は町の中にあるが、人里離れた感を出すため映像はかなりCGによる加工がくわえられていたみたいで、巧みな演出効果が発揮されていた。

パノプティコン(Panopticon)の「pan」は「すべてを」(all)、「opticon」は「みる」(observe) の意で、「全展望監視システム」とも訳されるというが、イギリスの功利主義哲学者ベンサムより考案された少人数で効率的な監視を可能にする設計のことであり、受刑者が入る監房が円形に配置され、中心から全体を管理することが容易にできるのが利点という。

だが、本作では、管理するものにとって有利なはずの「全展望監視システム」が、物語の終わりの方では受刑者たちが1つに集まる“晩餐”の場となり(受刑者の人数が12人で、監督はキリストと12人の使徒による“最後の晩餐”をイメージしたのかも、とも思った)、そこに刑務官も加わって、共通性のないはずの者同士がともにテーブルを並べる場ともなった。

 

もうひとつ、「分かり合う」ために重要な役割を果たしたのが、料理であり、なおかつ野菜だった。

映画の冒頭シーンは、いよいよ明日はこの刑務所ともオサラバというので、刑務官たちがカモ撃ちに出かけ、焚き火を囲みながらどれだけ獲物を仕留めたかを自慢し合うシーンだったが、映画の最後は、野菜の話で終わる。

すったもんだしたあげく、ようやく残った12人の受刑者の移送となり、きょうが最後の日というとき、もう一食だけ料理をつくらなければならなくなる。だが、残っている食材はパスタぐらいしかない、というので、料理を担当した受刑者のラジョーイアは、監督役の刑務官ガルジューロとともに刑務所の裏庭に野菜を摘みに行く。

ラジョーイアはいう。

「たしか今の時期はフダンソウが生えてるはずだ。あれはニンニクと合うんだよ」

フダンソウは日本ではあまり馴染みがないが、イタリアでは食材としてよく利用されているのだろう。紀元前1000年くらいからすでにシチリア島で栽培されていたといわれる地中海ではおなじみの野菜のようだ。沖縄では「ンスナバー」といわれ、料理にもよく使われるが、ヨーロッパから中国を経て沖縄に伝わったとされる。

ラジョーイアがフダンソウをむしり採っていると、それを見ていたガルジューロも別の野菜を採り出す。

「こついはサラダに合うはずだよ」

木になっているレモンももいで、2人は収穫した野菜を抱えて刑務所の中に入っていく。

映画の冒頭、刑務官たちはうまい肉が食べられるというのでガハハハと笑い合っていたが、最後になって人の心を和らげ、共通性なんかないはずの2人を結びつけたのは野菜だった。

 

ヒトは、肉も食べれば植物も食べる雑食性というけれど、もともとは植物を主とした植物食がヒトの食性だった、との説がある。

たしかに、熱帯や温暖な地域では穀類やイモ類はもちろん野菜、果物など、さまざまな植物が豊富に得られる。しかし、北に行くほど寒冷な自然環境になるため、植物がなかなか得られないので、代用食として肉を食べるようになったというのだ。

地中海の温暖な地である南イタリアでは、伝統的な料理は野菜を中心とした料理だという。

トマトはもちろんズッキーニ、ナス、ピーマン、ルッコラ、アティチョークなどなど、それに各種の豆類。

太陽をいっぱいに浴びて育った野菜が、人の心に寛容さと「分かり合う」ことを生んでいるのかもしれない。